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前回は鯨魚洞まで。
次は『漁翁島燈塔』を目指します。 場所は西嶼鄉の一番西です。 見えてきたのは軍の施設。 おい、どこにあるんだよ?灯台なんか? しかしよく見ると右の奥に白い建物が見えます。 施設手前でバイクを置き、施設を左手に見ながら 進んで行きます。 こんな感じで軍事施設と隣り合わせ。 澎湖島の位置が軍事上重要地点と言うのが よく解ります。ついでに話すと 澎湖島は有事の際。軍事的に機能するよう 道路が整備されていると聞いたことがあります。 (滑走路になるようになっている) 幸福郵便 一応、一番端まできたので こんどは逆戻り。 ここまでの走行距離約40km。 皇居から首都高速羽田1号線で 横浜 みなとみらい までの距離に相当します。 外垵村を眺めて。 外垵漁港 こんなところで暮らしていけるのなら 仕事があるのなら...暮らしたいですね。 若い時ではこのような 退屈な場所では暮らすことは できないでしょうけれど。 次に向かったのは 『西嶼西臺』 ここが入り口。右側にある白い建物で 参観料を払います。 203号線に戻る。 右側に見える赤い建物は 『內垵國小』 次に向かうのは『清新飲食店』。 この店、めちゃめちゃ有名。 http://www.cck.org.tw/me/me_talk_8.html 蔣經國さんも訪れたことがあるというお店。 http://www.tabitabi-taipei.com/youyou/200909/main2.html ちなみに一つ目のリンクに書いてある 『液香扁食店』も行ったことがあります。 場所は花蓮。 美味しかったですよ、ここも。 ただ最初に食べた『載記扁食』(同じく花蓮)のほうが 美味しかった気がします。(同じ一族の経営です) 話がそれました。 最初、店が営業しているのかどうかが 解らず、中に入ってみると... (時間は11:30ぐらい) こんな感じで誰もいません。 二階へ通されます。 二階へ上がり窓側一番手前の席にすわりました。 写真右奥にある冷蔵庫から飲みたいもの (ペットボトル)を自分で取る。 では菜單(メニュー)を見てみましょう。 食べることに夢中で 良い写真がありません。 伝票です。 NT$1450...二人で食べ過ぎ。レジの女の子も 笑ってました。(30分で完食!) 12時ぐらいの店の様子。 地元民と観光客でいっぱいになり始めています。 混んでくると落ち着かないので 早々に退店。 いよいよ『跨海大橋』をわたり 西嶼鄉ともお別れ。 約2.5kmの橋を渡るとそこは 白沙島です。 渡りきると 通梁村保安管 があります。 『ガジュマルの大木』があるところです。 観光客は 無!です サボテンアイスを食べずにさっさとこの地を 去り、203号線を南進。 202号線と交わるT字路を左折。 馬公機場を右手に見ながら 道なりに進む。 下の写真は『果葉村』付近。 『果葉國小』をすぎて 右へ道なりに進んだところ。 ここから更に南進し、204号線と 交わるT字路を左折すると 『龍門裡正角』がある。 1895年、日本軍はここから上陸した。 来た道を戻り、さっきのT字路をまっすぐ204号線 方面へと進む。 すると左手に、大きな煙突が三本みえる。 『澎湖火力發電廠』である。 (着陸する時に目立ちます) さらに西進すると、空港前の道。 (空港が右手になる) 『興仁國小』を通り過ぎ 201号線と交わる交差点を左折。 蛇頭山へと向かう。 続く... PR
前回は印章を作るところまで。
澎湖島の滞在時間が短いため ハンコを一気に頼んで夜は馬公市内をぶらぶら。 気温は17度前後。あたたかい。強いと 言われた風も町中は記憶にないぐらい だから静かだったのだと思う。 やはり1/1、休日のせいか 休みが目立つ。また冬季ということも あって街は閑散とした感じ。 適当に店に入って食事。 味は普通かな。 酸辣湯 NT$30 鍋貼 NT$60 蒸餃 NT$50 ここで食べた後、もう一軒寄って食べ ホテルへ戻った。 二日目。 朝早く起き、湯船に湯を張り 海を見ながら入浴。 いいですな~ 朝7時過ぎ、ホテル近くにある 地元の人が行く『澎湖漁港麵店』にて食事。 乾麵NT$60湯麵NT$50湯米粉NT$60 だったかな... この店、朝4:00~午後1:00迄みたいです。 右側にある 波波 の建物が『海洋渡假村』 停車してある白い車の無効に見えるのが 『澎湖漁港』。 ホテルから近すぎ!! その後、バイク(125ccのスクーター)を借りるため 車で迎えに来たレンタルバイク屋さんと一緒に バイク屋へと向かう。 借りたところは『成發旅遊玩家旅行社有限公司』 けっこう大きい会社なのね、ここ。 JAFで発行された翻訳免許をもっていったのだが 借りるためには台湾人の免許が必要で(要するに貸し出す為には 外国人では駄目だということですね) 友達に頼んだのだが、友人は50ccしか運転できない免許。 50cc二人乗りなんて... ちなみに私は中型免許もっています。 老闆娘にも「50ccじゃ走らないわよ~」って 言われ、『じゃぁどうすりゃいいでしょか??』 って行ったら 暫く考え込んで... 「OK!」 だって!^^ 書類に自分の名前と台湾の電話番号書き込んで 無事手続き終了!なんか本当は免許証預けないと いけないらしいのだけど、「その免許携帯しなければ ならないと...」っていったら返してくれた。 一日 NT$400。 借りたのは YAMAHA山葉機車勁風光BS125 ヘルメットは無料で貸してくれる。 まず最初にしなければいけないこと。 それはガソリンを入れること! 満タンは「加滿」。 あとガソリンの種類(オクタン価)が シートの下に書いてあるからそれを 言えば良い。 さてこのスタンド(台湾中油)を右手に見ながら 東進。 途中で203号線に入り道なり。 もうとにかく道なり。 『跨海大橋』の通り越し『鯨魚洞』まで 約30kmを一気に走った。 『鯨魚洞』とその周辺の写真。 オフシーズン。 観光客は見あたりません。 みなさん、冬に来るべきです。絶対に! 続く...
前回は馬公機場に到着までの話。
預け荷物を受け取り出口へ向かう。 そこに係員がいてbaggage tagを確認される。 泊まるホテルは海洋渡假村。 迎えの方につれられ一路ホテルへ。 今回澎湖島へ行こうと考えた理由。 それは単純。地図見て決めただけ。 が、調べるうちに、みるみる澎湖島の 虜になっていった。 新鮮な幸、歴史が感じられる町並み、台湾本島とは 違う風習、そのどれもが興味をそそられる。 行きたい思いは強まるばかり であったのだが問題が一つ。 澎湖島の冬季は風が強い。 很少人選在冬天去澎湖的... 因為東北季風名聲響亮,除了澎湖人,大家都怕... 決められた日程の中での旅行。 私も友人も「帰れない」では すまされない。 天候の予想は絶対ではないが 欠航の頻度は知っておかねばならない。 なので旅行前、 ホテルの方(フロントの陳さん)にいろいろと尋ねた。 レンタルバイク手配の件でも 親身になって引き受けてくれた。 陳さん大変お世話になりました。 この場を借りてお礼を言わせて頂きます。 どうもありがとうございました~~ また必ず行きます♪ で、これがホテルの一階ロビー。 そしてこれが部屋(海景四人房) 浴槽からは海も見えます。 こちらはバスルーム横のベランダからの風景。 私たちの部屋は406号室。海を正面にみて右側角でした。 部屋に荷物を置き、早速散策。 近くにある『菊島之星』へ。 この船の中にお店があります。 前から見るとこんな感じ(写真はネットで見つけた物) この施設,民國93年(2004年)に建設されたのだが あまりうまくいっておらず、地方政府はここを 免税品店にしたいと考えているらしい。 中は澎湖島の特産品等が販売されている(らしい...) すみません、奥まで上まで行っていません。 入り口付近にあるハンコ屋さんで買い物しただけです。 文石というものがある。 世界中でイタリアと澎湖群島 だけでしか採れない獨特の紋のある珍しい石だとか。 文石の形成については約百万年前後、地球プレートの激 しい造山活動によって噴出したマグマが冷却、固結を経 て玄武岩の内部に数多くの小さな穴が生じた、主に炭酸 カルシウムと他の鉱物を含んだ水分が岩石の穴に浸入し たまま、数万年の程に堆積し、美しい幾何のような紋になった結 晶の<文石>を産生したという<参考> 下の写真が購入した文石の印章。 これらがそこで作ってもらった印章。 いいでしょ♪ 続く...
予定通り1/1~1/4、台湾の西側に位置する島
澎湖島へ行ってきた。 って、その前、2010年8月行った 環島。 書き進んでいないことが発覚。 まぁそのうち書き込もう。 『台湾』のカテでも書いたが今回は羽田-松山のチケット。 これが新しい国際ターミナルの様子。 新しいからきれいはきれい。 でもなんだかどの店も開放感がない。 無理矢理押し込められているという感じ。 食事はここでした。 値段はこのような場所、しょうがないと想う。 でも、もう少し品数あっても良いのでは?? 下は展望デッキの写真。 飛行機はANAとEVAの共同運航便。 BR189便(ANAはNH5823)羽田10:45発 松山着13:30 3時間45分のフライト。 松山機場へ到着。 今回の目的地は澎湖島。 島に行ってからではSIMカードが 手に入らないと思い、渡航前に 松山機場で買えるのかどうかを ネットで散々調べたのだが まったく解らず終い。 探すの面倒になってきたので、 直接 中華電信 にメールで問い合わせを したところ売っているとの返答。 ということでSIMカードを購入するために 中華電信カウンター へと向かう。 場所は 海關(税関)を抜けてすぐの所(1F)。 まず期限が切れている(※期限半年 前回台湾に行った時 加值(リチャージ)を忘れた) SIMカードの電話番号を伝え、まだ使えるかどうか 調べてもらった。するとまだ使えるとの事。 NT$300を加值する。 次は国内線のチケットを受け取りに 立榮航空のカウンターへ。 国内線。 ネットで予約決済ができるので 便利なのだが、問題は線上劃位(check in) 8時間前にならないとできない。 国内線は15:30発 馬公行き(16:15着)。 ※これより前の便は時間的に余裕が無かった。 ってことは...時差が1時間あるので 日本時間8:30にならないと 線上劃位ができないということ。 仕方がないので羽田に付いてから無線LANで チェックイン。 無事チケットを手に入れ 二階国内線入り口へと向かう。 ※写真奥左手が国際線入り口。 右手が国内線入り口。 下の写真は搭乗ゲート。 ギリギリにならないと通ることができない。 階段をおりてそこからはバス。 これが乗る飛行機 DH8 機内はこんな感じ。 ちっちゃ。 45分後、あっというまに 馬公機場へと到着! 続く...
さて北京最終日。。
本当に名残惜しかった。このまま北京でもいいのに。 まずは天安門広場。 世界最大の広場らしい。 なんて講釈はどうでもよく、とにかく、今自分がテレビでしか 見たことのない有名な場所に立っているという事実だけで 感慨深いものがあった。 天安門広場ですよ!毛沢東さんの絵が飾ってあるのですよ! あの「ラスト・エンペラー」で見た「故宮」すなわち 紫禁城が目の前にあるのですよ! あーなんてところなんでしょう。 夢にまでみた場所。やっぱり西安に行きたくないな。 なんて本気で考えました。 くわしい説明はここ(http://www.nicchu.com/l)で ご覧ください。 私がここで説明するより、余程ましでしょう。 さて、これから裏の景山公園に出ます。 景山公園....故宮の北に位置する公園。黄昏時に景山の頂上の万春亭から見る故宮の風景は特に有名。この公園は、元代に北海が掘られた際の土砂を積上げ造られたもので、歴代皇帝の御苑となった。景山の麓にあるエンジュの木は、明代末期に紫禁城を李自成(注1)軍に襲撃された崇禎皇帝(注2)が、自ら皇后と皇女を殺害した後、逃げのびて首を吊った場所である。 この景色が見たかった。感激。 このあとラストエンペラーの甥っ子なる人物のところに行く。 ボランティアで書を売っているとか。 相場は一文字一万円らしい。勿論書いてもらうわけはない。 ここらの前後の記憶が曖昧なのだが、この後おみやげ屋さんに行った。 お茶の実演販売である。(ここのお姉さんもうまかったな、日本語。。) 結局巧みな話術と、味に負けジャスミン茶を購入。 そろそろ昼食の時間である。 一同土産物屋を出て、梁さんの待つところまで向かう。 すると公園内に水で字を書く達人がいた。 (天壇公園にもいっぱいいた) あまり取り巻きもいなかったので、ちょっとやらせてもらった。 今考えると、もう少しマシな事を書けば良かったと後悔している次第である。 天安門広場を抜けて食事をする場所へ。 ここもおみやげ屋さんに隣接するところです。 北京最後に北京一の繁華街、王府井(ワンフーチン)に寄る。明代、清代には親王や高官といった上位階級が住む地域だったが、終戦後は付近に駐屯地がおかれたこともあって、古くから外国人と接してきた町となった。ホテル、レストラン、ショッピングモールなど、外国人向けのさまざまな施設が政府によって整えられてきた場所だ。そのため独自のカラーを持って発展していた。 ここには何でもあった。マクドナルド、吉野家などなど。 先生「やっぱりマックで食べたいな」 さすが達人は違う。勤めたことがあるものとしては 通り過ぎることができなかったのであろう。 ここの本屋さんで自分にお土産を買った。 無情にも時間は待ってはくれず姚 蘭さん達とお別れする時間となった。 本当に良くして下さった。心から感謝します。 西安でも「いいガイドさんだったらいいなぁ」と 期待をかけながら一路西安へ。 この画像の写真屋さん。 中国一、有名な写真屋さんらしい。 これが土産に購入した本。 国内線に乗った。 北京-西安便のお客さんは確か20人前後だった記憶。 もちろん席は自由。機内食はサンドイッチ。 安定高度まで達すると乗務員がちらほらと後部座席の方へと歩いていく。 最初はあまり気にならなかったのだが、あまりにもみんなが行くので 後ろを振り返ると、みんなそこで寝ているではないか! 「この飛行機、いったい誰が操縦しているんだ?」 西安到着! 午後6時くらいだったと思う。 西安でのガイド、陜西文物国際旅行社の李英さん。 最初の印象はあまり良くなかったのだが、後にものすごくいい人だと判明。 運転手の人も最初は感じが良くなかったのだが 先生の鞄を落とした事によって、意気投合! さすが先生は違う! この運転手、ふつうの道路を時速130㎞で飛ばしていく。 道路狭いからものすごいスピードに感じる。 一路、東方大酒店へと向かう。 これが、めちゃめちゃいいホテルだった。 玄関口なんか総大理石。 本当に良かった。 翌日。 朝7時に起きる。 ホテルから目の前にある交差点をしばらく眺める。 これが実にすごい。なにがすごいかと言えば信号があるにもかかわらず 守られない。なのにそこにはある一定の秩序が存在する。。 本当にすごい。事故が起こらないのが不思議なくらいだ。 クラクションもきっと朝の挨拶代わりなんだろう。ひきりなしに鳴らされる。 そして、外で李 英さんたちを待つ。 今日はこれから兵馬俑に行く。 そういえばこの李 英さん、独学で日本語を学んだらしい。 でも、めたちゃめちゃうまい! このような人たちに出会う度に、自分の位置を再認識させられる。 人生一生勉強である。 兵馬俑到着。 私たちが今回の旅行を申し込んだスタークラブが提携している中国の旅行会社がこの兵馬俑記念館を経営している会社らしく、なんと国賓が訪中したときにだけしか入れない場所に入ることが出来ました。 さて館内の見学が終わり、例によっておみやげ屋さんです。 私たち、国外からの観光客も、もちろん多いのですが 中国国内の旅行者も、ものすごく多いです。 20世紀最大の発見と言われるぐらいはあります。 この併設されているおみやげ屋さんで私は「兵馬俑」について書いてある 日本語のガイドブックを購入。 (ガイドさんの話によれば、この兵馬俑の第一発見者が本にサインしてくれるという) このあとの上海の料理の含めて、ここ西安の料理が一番私の口には合った。 本当においしかった。 腹もいっぱいになり、次は華清池へと向かった。 ********************* 華清池 http://www.iijnet.or.jp/xipec/sight/meisho/sight14.htm 西安から東に30キロ離れた驪山の麓にあります。 驪山は海抜1256m、風景秀麗なところで、三千年前の西周時代からの温泉の湯元があります。 そのため、ここは歴代の帝王が享楽に耽った所でした。 西周時代末期の周の幽王はここを驪宮として時々愛妃褒似を伴なって酒宴をしていました。秦の始皇帝がこの温泉に入ったと言う話も広く伝えられています。唐の玄宗皇帝が747年にこの温泉地に造営した本格的な宮殿式建物は「華清宮」と名付けられました。 楊貴妃は傾国の名花として名高く、718年蜀州の官吏楊玄炎の娘として生まれ、名は楊玉環と言います。 16歳の時、美人(官名)に選ばれて宮殿に入り、玄宗の子、寿王の妃となりました。唐の開元二十年(740年)十月、玄宗皇帝が華清宮に行幸中 宦官の高力士の推薦によって召し出されました。 その後、楊貴妃は女道士となり、太真と称し、太真宮に住みました。 官名通りに美人で聡明、その上下歌舞に長じた玉環は玄宗の寵愛を一身に集めました。 745年には皇后に次ぐ高位の貴妃となりました。 それ以来、玄宗は毎年秋から翌年春まで楊貴妃と共に華清宮に住み 温泉に入り、歌舞を観賞し、歓楽の日々を送りました。 また楊貴妃の姉三人は妹のおかげで宮中に入り まもなく一族の楊国忠が宰相の要職に就き、楊氏は栄華を極めました。 華清宮には玄宗と楊貴妃のために蓮花湯と海棠湯という専用の浴室も造られました。当時の蓮花湯は規模が極めて大きく、大理石で造営し 白い玉石で魚、竜、雁、蓮の花などの形を彫刻し、十八の浴室を飾りました。 特に白い玉石で彫刻された蓮の花は温泉の湯の中でまるで芙蓉の花が水面に咲いているようだっとと伝えられています。 飛霜殿は玄宗と楊貴妃が泊まったところで、また、宴会と歌舞に明け暮れていたところでもありました。 この殿の南に九竜池があり、昔、温泉の湯が流れ注いでいた池です。 玄宗と楊貴妃は飛霜殿の前に立って、池から湯気の立っている風景を観賞しながら語り合いました。この情景は唐代の風景画にも描かれています。 貴妃池とは彼女の専用の浴槽で、蓮の花の形をしています。 楊貴妃は入浴してから、飛霞閣に上がって、髪を乾かし、その後、すぐに桐蔭軒で踊りました。 玄宗はその入口で惚れ惚れとして眺めていたと言います。 楊貴妃は茘枝が代好きだったので、馬で蜀州から長安に運んだという話があります。600キロも離れている蜀集から三日間で茘枝を運べという命令もありました。唐代の有名な詩人白楽天は、玄宗と楊貴妃の華清宮におけるロマンスを素材にして長編の叙事詩「長恨歌」を作りました。 「春寒くして浴を賜う華清宮、温泉の見ず滑らかにして凝脂を洗う」 華清宮は現代中国の政治舞台にも輝かしい1ページを飾っています。 1936年12月、蒋介石は南京を出発して西安に来ました。 その目的は楊虎城の西北軍と張学良の東北軍による共産党「討伐」が一向に捗らないことに業を煮やしこの二人の将軍を督戦するためでした。 蒋介石は華清宮の五間庁に泊まって、12月12日朝5時、突然の銃声で目を覚まし着替えもできず、裸のままで窓を乗り越え、山腹に逃走しました。 山はらの大きな石の隙間に隠れている時、8時頃、張学良の護衛兵が発見して捕らえ西安市の西京招待所に幽閉しました。 張学良と楊虎城はさっそく延安にいる毛沢東に電報を打ち、代表団の派遣を要請しました。毛沢東は周恩来を西安に派遣しました。周恩来は何度も蒋介石と交渉しその結果第二次「国共合作」が実現しました。 五間庁の窓には今も当時の弾痕が残っています。 山腹には記念のため、石造の部屋が建てられ、「兵諌亭」と名付けられました。 現在の華清宮には温泉の湯元が四ヶ所あり、一時間の湧出量は125トンです。温泉は摂氏43度、その名かに石灰、炭酸マンガン、硫酸ナトリウムなどの 九種類の有機物質が含まれていて、関節炎や皮膚病に効能があります。 最近発見された唐の太宗皇帝の星辰湯、玄宗皇帝の蓮華湯、楊貴妃の海棠湯などの著名人の浴槽の遺跡の上に古典的な建物が作られました。 尚、飛霜殿の前に立って眺望すれば美しい風景の庭園に広い池があり 朱塗の亭や楼閣、東屋などの唐代の風格を保っている建物が点在し 枝垂れ柳や百日紅の木が茂り、古代にロマンスが偲ばれます。 烽火台 周の幽王は褒似を溺愛したが、一度も笑わないのを苦にしていた。 ある日、手違いで外敵侵攻を知らせる烽火が打ち上げられて 四方から駆けつけてきた武将たちが間違いと知ったときに褒似は笑った。 幽王は褒似が笑う顔を見たいがために何度も烽火をあげさせた。 さらに、皇后と太子の宜臼を廃し、褒似とその生んだ伯服を立てようとしたため皇后の父親申侯は西戎と連合して周を攻めた。 急いで烽火をあげたが、虚報に懲りて救援の諸侯は集まらず 幽王は殺され、周は滅亡したと伝えられている。 住所 西安市臨潼区華清路38号 電話 029-3812003 開放時間 07:00-19:00 入場料 40元 ********************* 次は大雁塔。 これが最上階からの眺め。 そしてその次は訪唐歌舞。 食事は劇場の上階で食事をすることに。 西安の名物の一つ、餃子を頂く。 ここも、旨い。本当に旨い。なんでこんなに旨いのだろうか? ここの女性の給仕の人も「日本語」上手。 肝心の劇ですが、これは「良かった」と表現するよりも、「美しかった」と 言い表したほうが合っていると思います。 ただただ美しかった。 最後駄目押しに「足マッサージ」。 ガイドの李英さんと一緒に4星ホテルにて。 この日はすごく贅沢な一日でした。 西安最後の夜は...そうお決まりの....「呑んでます!」 「お土産用」だった酒。 今、撮ってきたビデオを観ながらこの中国日記を書き上げているのだが 実に贅沢な旅行だったと改めて思った。 主要な所は短い時間の中で、ちゃんと行っているし 一緒に行った仲間も非常に良かったと思う。 まぁその分払ったお金も相当額払っているのも事実だが。 でもそんな楽しい思い出深い旅行も一年を経て考えると記憶が曖昧になる。 やはり、日記というのはその時に書き記しておかないと、後からでは 躍動感あふれる文にはならないことを実感した。 そして、このあと上海に向かう。 知人の妹と会って食事をした。 上海はガイドと喧嘩したのと 滞在が半日程度だったので 書くことほとんど無し。 翌日、日本へ帰国。 その帰国便がなんとビジネスクラス(もしかしたらファースト?)。 先生なんか、乗務員になんども確認していましたからね! 本当にびっくりした。 終わりよければ全てよし。
前回は北京についた所まで
朝、確か9時に待ち合わせだったから、7時半かな起きたの...。 眠い目をこすりながら、いざ2階食堂へ! バイキング形式なので、たらふく採る、取る、捕る。 昨晩からの空腹のせいなのか、非常においしい。 虎龍「あー食べた」 新ペー「いやぁ、おいしかった」 先生「もぉいしい!」 姚蘭さん「おはようございます!!」 すがすがしい!実に爽快な朝だ! 各自、両替をすませ運転手の梁さんと共に まずは明の十三陵の一つ、万暦帝の定陵へと出発する。 ******************** 長陵の西南にある定陵は、明の13代皇帝の万暦帝と2人の皇后を埋葬してある。 万暦帝 は22歳で帝位につくと、すぐ自分の墓の造営を始めた。6年の歳月と国費の2年分に相当する巨費を投じて完成した。陵墓といわれず「地下宮殿」というほどの豪華な造りである。酒色におぼれた皇帝は、生前に完成したこの墓の中でも大宴会を開いたといわれている。 地下宮殿は、地下20㍍という深い場所にある。天然クーラーが効いて夏でも寒い。 前、中、後、左、右の5つの殿堂でつながり構成されて、総面積は1195㎡。すべて石造りでアーチ構造になっている。中には発掘された当時の棺(複製品)と、皇帝・皇后の大理石の宝座が展示されている。 この発掘の引き金となったのは小さな石碑であった。その発見のもとになった文字の刻まれた石は、そのまま定陵博物館に陳列されている。 第1室は前殿、いわば宮殿のアプローチに当たる。地面にはレンガが敷かれ、周囲は大理石造りである。第2室には宝座がある。皇帝の座には龍の彫刻、皇后の座には鳳凰の彫刻がされている。一番奥まったところには、棺が三つ並んでいる。中央が皇帝,左右が皇后。 周囲の箱はすべて副葬品になっている。 地下宮殿を出て明楼に上がれば、その他の陵も点々と見え、明代の皇帝の権力がしのばれる。 向かう道の両脇に桃園がいっぱいに広がる。 住所は北京市昌平県十三陵特区 電話番号:010-6076-1424 OPEN時間:8:00~17:40 休日なし 入場料:26元(2002年当時) 交通:徳勝門からバス345路で「昌平」へ、ここで314路に乗り換えて「定陵路口」で下車。 前門から観光バスも出ている。 ******************** 駐車場に着く。相変わらず、売り子が多い。 本当に多い。スゲー多い。 神路を通って(これって合ってます?) 地下宮殿へと近づく。 余りよく覚えていないが (そりゃそうです、行ってからもう2ヶ月近くも立っています。) ものすごく入り口まで混んでいた気がする。 なんか宮殿の周りの庭だかなんだかの周りを一所懸命進む。 やっと入り口。ここからは撮影禁止。 細かく書きたいのですが、 ここはひとつ別サイトにゆずりましょう。 http://www2.fukutoh.co.jp/~koba/chaina/2nd_day2.html どう?見終わりましたか?まぁこんな所です。 しかしもかかしも中国はすごい。 こんな物作ってしまうのだから...。多分この宮殿だって工事に携わった人たちは大部分はうめられたと思いますよ。なんせ秘密を知っている者ですからね。 入り口にて姚 蘭さんに「アータラコータラ、では何分後」って言われた。 仕方がないのでまずは工場見学。 なんかこの場所すごい観光名所?らしくて 検索していたらこんなの(http://www1.ocn.ne.jp/~maru3sp/page27.html)が出てきました。 そうです、まさにこの青いジャケットを着ていられる方が 私たちに説明をしてくれた方です。(オー懐かしい!!) が、である。何が"が"ナノか? まったく覚えていません。 なんせ頭に残っていることと言えば 出口付近にあった地球儀がエライ、エライ、ナオエライ高かったって事かな? 関係ないが移動中にとった映像。 北京にディズニーランドをと言う計画が途中で頓挫した跡だって言っていたよう な...。誰かこの話知りません?) 広い店内に投げ出されるやいなや「待ってましたと」と 屈強な、もとい可憐な、イヤイヤ昔、可憐だったと思うような方が まるで街頭のティッシュ配りのねーちゃんみたいに近づいてくる。 一人目。まずはかわす。 二人目。何とかしゃべらずにチャイナドレスが掛かっている茂みに 身を埋める。 「新手が...」今度は笑顔を振りまきながら、カニ走りに すり寄ってきた。 「ダ、ダメか」。 と、あきらめかけた途端 新ペーの声が...。 「何か良い物ありました?」 とりあえず第一次攻撃はかわしたようだ。 ふたりでブラブラ。あっちこっちブラブラ。 しばらくして気がついた い、いない。先生がいない。何処行っちゃたんだろう? (後日、売り子に"拘束"されたいたことが判明) そこで確か、手の運動するような丸くて音がするやつ買ったような。。 結構、あっさり値引きしてくれたのを覚えています。 姚 蘭さんと梁さんと落ち合う これから、ちょっと遅めの昼食である。 なんか此処も有名な所みたいで店に入った瞬間ものすごい人、人、また人。 一階がお土産やさんで二階が食事するところになっている。 そして、踊り場(現在死語)で 二人のチャイナ・ドレスを着たおねーさまがしきりに大声で怒鳴り合っている。 ○でけんかしているみたいに... ねーさまA「そっちに伝票あるでしょう!!」 ねーさまB「うるさいわね、さっきから無いって言ってるでしょう!!」 ねーさまA「”うるさい”は余計でしょ!コノトントンチキ」 ねーさまB「な、ナニ!!!!!!!!」 *ちなみにこの人達、おそらく観光の人たちの予約伝票を管理していたと思いますが この店、なんと300人くらいは余裕で入れる位、大きい店です。 その伝票を多分、二人で仕切っていました。すごいですね と、そこへ我が部隊の隊長、姚 蘭さん登場です! 姚 蘭さん「どれどれ、ちょっと見せて」と 踊り場嬢の手から伝票をとる。 一同見つめる...ドレスを......... 姚 蘭さん「これは?」 ありました。流石です。 一同席へと向かう。 一度くらいはみんなで食事をしたかったので 運転手さんの梁さんも一緒に食事をしましょうよと 姚 蘭さんに告げると、「ではそうしましょう」ということに...。 (後で考えると初めから5名席だったような...。まぁいいっか) 本来ならガイドさんと運転手さんの食事するところはもっと 奥にあります。 兎も角、まずは食事。 新ペー「う、うまい」 先生「うぉまい」 私「マジ、うまい」 本当においしいです。なんか別に普通なんですよ。 ただただこんな大きいところだから、おそらくいろんな物 使っていると思いますが、なんかなんだろう? 中国に来たという感じをさせてくれます。 本当に普通の料理なんですけどね。。 このツアーなんか食事の旅にビールが一本ついているらしく (うまい、この商売上手。だって一本で終わるわけが無いじゃない!) あっという間に飲み干す。・・・もうこの段階で来年もきっと来ようと思いました。 私「すみません、ピージュ」。 止まりません。アタリマエ。 と、その時なにやらテーブルに小さいビンが..。 「白酒と言います」 姚 蘭さんが教えてくれた。 これ呑んで良いんですか? 新ペー素直な質問である。 誰しも思ったであろう。 姚 蘭さん「もちろん!!」 こりゃ止まらない。どうしようもない。 相手の作戦勝ちである。 本当にたらふく食べました。 さぁこの後はお待ちかね?万里の長城です。 万里の長城。 行ってみたかった所のひとつです。 説明はこちら http://www.nicchu.com/beijing/kanko/k01.html) グレートウォールとしてユネスコの世界遺産の筆頭級にあげられ、中国を代表する最大の史的観光スポットである。北方の外敵からの防御という目的とはいえ、山の峰々や絶壁、あるいは谷、はては川の中にまで張り巡らされた城壁群には圧倒される。と同時に、あまりの壮大さゆえに、プランナーに対してはその英知をめでるというより、日本の戦艦大和の建造に似る、あるいはそれ以上のスケールの愚かさも禁じ得ない。しかし、いま、計数的にそれら費用対効果を論じられるのは現代の視点に立てるからであって、ただただ絶対君主であり続けなければならなかったいにしえの王朝からすれば、対外的軍事戦略というよりは、融合したばかりの国内での心理的統合、あるいは畏怖の確立といった内的効果にも狙いにあったにちがいない。いずれにしても、累々と続出したであろう施工によるあまたの事故犠牲者などをめぐりどんな感慨を抱くにせよ、北京に来て、じかに長城を見て帰らないことには、中国史、また今後の中国、かつ中国人を語ることもできまい、と言えるしろ物だ。 春秋戦国時代のころから、中国国内では北方のみならず、至る所に諸侯による長城が築かれていたが、北方では騎馬民族などの夷敵からの防御のため、東ははるか鴨緑江まで築かれていたといい、いまでも遼寧省内でその遺構が散見される。それぞれの長城をつなぎ合わせれば1 万2700華里(1華里は0.5キロ)となることから、俗称として「万里の長城」の名が生まれたようだ。 紀元前221 年、中国を統一した秦の始皇帝は、それら北方の燕や趙の長城を連結するとともに西方にも延長した。渤海湾岸の山海関から甘肅省の嘉峪関まで、長城を一重のシンプルなものと見れば全長は2700キロに達する。その時代の長城は土をつき固めた比較的簡単なもので、いわば土塁の連続に過ぎない。したがってほとんどが風化されるままで朽ち果てているものも多い。しかし明代、ことに後期になって改めて築かれた長城は大ぶりなれんがで表層を覆い、しばしば修復をくり返した。そのためもあって、山海関から黄河に至る最も堅固な部分が断続的に現存する。北京市域内では、玄関口に当たる居庸関のほか、八達嶺、慕田峪、さらに東北郊密雲県の司馬台などが改めて観光地として整備され、一般向けに公開されている。 ******************** 八達嶺 北京市内から約75キロ、高速道路を使って1 時間足らずの距離で手軽に長城見学ができる最もポピュラーな箇所。西北郊の延慶県に属す。太行山脈に続く軍都山脈に当たり、なだらかな尾根と小規模な峡谷が連綿と続く高原の入り口に位置する。バスや列車で、後述する居庸関を過ぎて北上するとよく分かるのだが、この付近は最高でも海抜1015メートル程度に過ぎないにもかかわらず、広大な河北平野に位置する北京からは指呼の間にあり、王城北方の後背地の一環として古代の覇権者が軍事的に重要視せざるを得なかったのだ。 車であれば、「工事でだいぶ死んだだろうなあ」と思わざるを得ない、急峻ながけにも築かれた長城の支壁を右側に見やりつつ、高速道路を下りて山間の旧道をしばらく走ると大規模な南麓駐車場に至る。「長城への近道」などと書かれた屋根付きの階段を歩いて登ると鞍部の登城口になる。列車で来た場合、あるいは車でも高速をやや走って八達嶺駅付近を経由すれば直接登城口付近のもうひとつの駐車場に到達できる。八達嶺、休日ともなると、北方に連なる北線には多くの観光客が押し寄せる。 往時、一般の通行を制限する関所としての機能を持ったのが長城の関城だ。下の駐車場から登って最初に長城をくぐる関城の門付近の城壁は高さ7.5 メートル、厚さ4~4.5 メートルだが、ここ以外では7.8 ~9 メートルの高さとなっている。約110 メートルごとに望楼兼のろし台のdun(土偏に敦煌の「敦」)台が築かれ、内部は守備兵の詰め所になっている。といっても、探したがトイレや水場すらなかった。往時は戦場の最前線にもなり得た場だ。dun台を含め、長城本体はそれまでの土塁風のものとは異なり明代に修復された。そのため、故宮などの城壁と同じ、くすんだねずみ色の大ぶりのれんがで四周を固め、より堅固なものとなった。やはりれんがを敷き詰めた城壁の上部は騎馬が5 列、兵士が10 列並べる幅を維持しているという。 小学生の頃、長城の上部は馬が牽引するような古代の戦車が走れると習った記憶があるが、実際には急傾斜の階段部分が多く、戦車は不可能だ。騎馬でさえ登り下りできるかどうかで、要は見張りと伝令役の兵士が徒歩で往復し、急用があれば近接するベースキャンプである居庸関などへ向けのろしを上げればすむ。 凹凸状の矢ざまのある壁面の側が城外、反対側が北京方向となるが、長城が尾根など地形の変化に合わせてくねくねして築かれているため、矢ざますべてが北方に向いているとはいえない。 見学は左右の山の頂きにある望楼まで可能だが、歩いて上るのは登山と同じで健脚者でなければ難しかろう。ただ、そこまで行ければ、なお荒れたままの長城の延長や、はるか彼方の山並みまで遠望できる。なお八達嶺駅側にロープウエーが引かれ、北京から見て左側の長城の望楼へ向け5 分ほどで登れる。 行き方: 著名ホテルを回る中国国際旅行社などが主催する現地ツアーに参加する場合、明十三陵の参観を加えて、ガイド付きなら日本円で5000円以上かかる。少しでも中国語ができる方なら、前門の東北の角のバス停から市交通局の「游1」ツアーバス(ガイドなしの個人参加)がある。また徳勝門から919路長距離バスに乗れば10元ですむ。国鉄八達嶺駅付近に着く。さらにマニアックな方向けに、北京北駅から国鉄京包線の直通旅游列車に乗って直接八達嶺駅へ行く方法もあり、この場合も快速・空調代込みで10元。バスは約1時間、列車は約2時間の所要だが、観光を含めていずれも半日~1日がかりとなる。 入場料: 八達嶺登城口で傷害保険込み36元。 南線ロープウェー料金: 片道40元、往復50元。 (2002年当時の価格です) ******************** 姚 蘭さん「男坂と女坂がありますが、どちらにしますか?」 私「そりゃ、人が行かない方」 へそまがり。 結局、急勾配な男坂の方へ...。 と上りだしてまもなく、売り子さんの登場!! 頑張っています。力強いですね。日本のみなさんも このくらい、頑張ってくださいね! 客と売り子の戦い。がんばれ先生、がんばれ売り子さん! っていうか、いらないならハッキリ「いらない、不要(ブーヤオ)」って 言えばいいのに...。 向こうも暇じゃないから、買う気が無いと解れば、相手にされなくなるのに...。 ま、そこが先生いいところ。 のぼる。のぼる。の・ぼ・る。の・・ぼ・・る。の・・・ぼ・・・・ きつい。ハッキリ言って壁と同じくらい(大げさでは ない と思う) 私「いいよ此処で待っているから行って来な」と 若い二人に先を託したのであった。 私「勝手にいけ!こっちは歳じゃ」 姚 蘭さんとしばし、そこで待つことにした。 だってガイドさんだって嫌でしょう? 一ヶ月の間に何回のぼるのでしょうから。 しばらくして、先生と新ペーが戻ってきた。 長城、良かったです。 夢にまで見たものに、行くことが出来たと言うことは...。 久々に更新。なんと中国に行ってから 一年が過ぎました。 だのに...だのにまだ、去年の事を書いているとは。 情けないやら、はずかしいやら。 でも、やり始めたことなので一応最後まで掲載しようと思います。 (記憶が曖昧なので時々、フィクションになるかも) さて、長城を降り、お決まり通りに「土産の関所」へと向かう。 しかし、ガイドさんたちはここを「休憩所」と呼ぶ。 「しばらく休んでいてください」 そう言い残し姚 蘭さんは、何処かに消えていた。 さぁこれからが大変だ。 茶が出される。 飲む。 話しかけられる。 寸時も間が無くたたみかけられる。 もうだいぶ慣れていたので、新ぺーと私はシカトを決め込んだ。 しかし。そうです。やはり人のいい、濛々先生。。 水晶(売り子さんはそう言っていた)を必死に勧められる。 「いくらするんですか?」 だいぶ高いらしい。 先生、必死に指輪を見せる。「最近結婚したばかりでお金が無いんです」 無駄だろう。説明しても。 当然のごとく、さらなる「口撃」は続く。 「じゃぁ奥さんに何かかってあげなさい!」 売り子さんも仕事。そりゃ遊びじゃ無いのだから、真剣なのはごもっとも。 いろいろと説明して、お金が無い旨を説明する先生。 日本語で。 「いま妻がこれで。。」とおなかに手をそえ、大きく弧を描く仕草をする。 そう...子供がお腹にいる事を言っているらしい。 だが敵もさるもの。 「そうか、そうか、それはおめでとう!!コングラッチレイション!」 「じゃぁ安産のお守りがこちらにあるから、見てみなさい!」 商魂たくましいとはまさに、このことだろう。ガラスケースの前で ものすごい勢いで商品説明を続ける”売り子さん”。 学ぶべきものがここ"4000年の中国"にあった。 商売とはコウダッタンダ! 文章にするとわずかに、こんなものだがこの攻防おそらく 20分ぐらいは続いたと思う。 終いには先生「やめてー!」って耳に手をあてて 泣き叫んでいた。 「では、行きますか!」 救世主の女神が現れた。 姚 蘭さんの登場である。 梁さん運転する車で今度は天壇公園へと向かう。 ******************** 天壇公園 明の永楽帝によって造られた面積273万㎡の公園である。 明・清時代に皇帝が豊年を天に祈願した場所。 外垣は≒6.4Kmさらに内垣で仕切られた敷地には南より圜丘壇、皇穹宇、祈年殿が並んでいる。 祈年殿 直径30m、高さ38mの円形の建物である。 円形の3層の大理石の基壇上に建てられ屋根は3重の瑠璃瓦で葺かれている。 28本の柱で支えられおり釘は1本も使われていないそうです。 祈年殿の年は稔(実り)の意味があり、毎年正月、天子は皇天上帝を祀って五穀豊穣を祈った。 皇穹宇 青い瑠璃瓦の円錐形の屋根をもつ木造建築物で歴代皇帝の神位を奉っておくところ。回音壁 建物(皇穹宇)を囲う直径65mの円垣は垣に近づきささやくと遠くの人に聞こえるという所からその名がきた。私は手を叩いてみたが伝わるようであった。 圜丘壇 毎年冬至に皇帝が登り天を仰いでその年の豊作を祈った所だそうです。明清時代に皇帝が天に五穀豊穣を祈った所。中国に現存する最大の祭祀建造物。市街南部,かつての北京外城部の崇文区の4分の1を占める公園となっている。左写真の祈年殿は,この公園を代表する円形の木造建築で,3層の大理石の壇上に建つ。高さ38m,直径30m。中央には円形の石があり,自然の龍紋がある。内部中央の4本の柱(龍井柱)は四季を表し,周りの12本の金柱は12ヶ月を,その外の12本の柱は12の時刻をそれぞれ表している ******************** さて、高速道路を突っ走り目的地へと向かうわけだが 途中、公安に車を止めろと手招きされる場面に遭遇。 梁さん、そこは慣れたもの。 車のウインカーをだし、するすると公安の方へと向かう。。 と近づき車を止めそうになった瞬間、車はフルアクセルで急発進。 爆走、いや逃走である。 リヤウィンドに映る、なさけない公安。 なんでも、まじめに止まる人なんていないらしい。 それに公安が使用している車より、民間の人が使用する車両のほうが 断然早いので、追いつかないとも。 こりゃこりゃ。。 しばらく走り、目的地”天壇公園”へと到着。 天壇の南門、昭亭門から入り 長い、長い、神の道を歩き中心部へと向かう。 途中、日本の歌謡曲が流れているのを聞くも、そのときは題名がわからなかった。 帰国後ビデオで「グッパイマイラブ」アン・ルイスの曲と確認。 この天壇公園の神の道近くでは盛んに凧揚げが行われていた。 自分も小さな頃はよく作ったものだ。自作の糸巻きなんかで揚げていたっけ。。 こんな長閑な日常を取り戻したいな...なんてね... ここ天壇公園の説明は他のサイトに譲るとしよう。。 圜丘壇、皇穹宇、回音壁など一通り見て、七十二長廊を通って外へと向かう。 七十二長廊では普通の北京市民が歌や楽器の演奏を披露していた。 実にいい感じである。 次は北京ダック 私の記憶が確かなら全聚徳(支店名は解らない)に行ったと思う。 (もし店内の画像を見て違っていたら連絡してください) のんだ、呑んだ。白酒。 またここのお姉さんが商売上手。。 たちまち、お土産まで買わされてしまった。 すっかりいい気分になって梨園劇場にて、京劇を見た。 (ごめんなさい、これも曖昧な記憶です) どうやら三岔口という演目だったらしい。 上演時間:30分、上演人数:3人 任堂恵は島流しになった焦賛を密かに護衛しようと後を追っています。ある日、三叉路=三岔口 近くの宿に泊まることにしますが、 宿の主人劉利華は、任堂恵を焦賛暗殺の刺客と勘違い。 2人は暗闇の中で、大立ち回りとなります。 最後に焦賛 が現れて、任堂恵と劉利華の2人が 味方同士とわかるまで、ドキドキ、ハラハラ。とっても緊張しているのに、笑いがこらえきれない。京劇の名作です。 これはどこかのサイトからの抜粋。 後に西安に行ってガイドさんに「京劇みたよ」って言ったら 「なんであんなに退屈なもの見られるの?」と言われた。 やはり国内でも郷土意識が強いんだろうなと感じた。 続く...
①はこちら
8月15日 12時の待ち合わせ。のはずなんだけど誰も来ず!10分過ぎ位に新平から電話が...。 「今から家出ます!!」 ぶっ飛ばす!!最初からこれでは先が思いやられる。一方、先生の方はというとこれまたこないし、連絡無し。おまけに携帯つながらずでやること無し。 仕方なく、店のまえで、持ってきてもらった麦茶を飲む。 待つこと30分あまり。ようやく先生登場 「えっ、12時半じゃなかったっけ!」 たしか電話の時に12時にしようと言ったと思ったのはこちらの勘違いか? たぶん、そうだろう。 遅れること5分。 しんぺー、到着。 わたくし絶句!! まぁ、仕方がない!こんな事でいちいち驚いていては、いけない。とりあえず店の中へ。が、お客様でいっぱい。 「せっかく、行く前にそばが食べたかったのに...。」まぁしょうがない。うれしい、嘆きだ!!。 階段のところで靴のひもを結びながら、みんなの来るのを待つ。まつ。マツ。 がこない。仕方なく店に電話。 「いま、みんなビール呑んで、カレー食べています」 「おまえら、行く前にかたづけてやろうか(-_-)」 先生 「あーおいしかった!」 しんぺー「いやぁービールは最高!」 わたし「................」 これから先、どうなる事やら...。 気を取り直しYCATの方向へ 歩きながら、訪ねてみる 「いくら持ってきたの?」 先生「成田までの往復バス代入れて4万円!」 新ペー「3万です」 おまえら、全然話が違うじゃないか!!」 よかった、人の金をあてにしなくて...。 とにかく、俺は腹が空いている。こいつらと違い何も食べておらん。 なのに、食事をしようと言ったら渋い顔。 食わせろよ、俺にも! ポルタの中にある、チェーン店の鶏肉の店(名前知りません)に入って 開口一番「カシスソーダください!」 新ペー「俺、ライムサワー」 先生「じゃぁ、レモンサワー」 「それから、お新香と煮込み、コロッケと☆★●○◎△(^_^)v」 何しに行くのでしょう。中国へ..?.。 YCATにて、往復券を購入。当初予定のバスの時間より一時間ぐらい遅いバスにする。 バスの中は、みんなひたすら寝る、ネル、ねる! やってきた成田空港。 おなじみのパスポート拝見!がしかし、 旅行会社に言われてパスポートはチケットカウンターある。 「大丈夫だよ!そんな人いっぱいいるって」 公安だか、空港職員だかしらないが、ずかずかとバスに乗り込んでくる。 俺達三人だけ、どうやらないらしい。 検査官「パスポートを拝見させていただきます」 先生「旅行会社のチケットカウンターに有ります」 検査官「では、何か身分を証明できるものを、お持ちですか?」 私「何もない!!」 先生「これはどうですか?」とクレジットカードを見せる。 検査官「もう一枚、名前が入ったものが有りますか?」 先生「すみません、ないです」 私「本当に何もない!!」 検査官「みなさん一緒ですか?」 新ペー「ハーーーーイ」 検査官「.............................。」 バスの乗客「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」 検査官「では、次回から身分の証明できるものを、二枚ご用意してください」って言っていたか どうかは定かではないが、まぁそんなようなことを言っていた。 空港に到着! が、早い。早すぎる。なんと一時間前!さぁ困った。本当にやること無し。おまけに金もないもんだから、お手上げ状態。 仕方なく、売店に行きぶらぶら。インターネットをしながらぶらぶら。 最後にはマックなんか行っちゃってモグモグ。 やっと、待ち合わせの時間が近づく。 チケットカウンターに行き、チケットを預かるとまた途方もない時間をつぶさなければいけなくなった。 一同 「................................どうする?」 先生 「どうしましょうか?」 私 「それじゃーそれじゃーつまり、そのなんだ、えーっと」 新ペー「しょうがないから..........」 一同 「のんじゃいますか!!」 馬鹿である。 さぁ、いよいよ北京へ旅立つ。 楽しみである。 「ブォ----------------------」 「ヒゥ-----------」 「ガ-----------」 まぁ、こんな感じで、飛行機は空へと.....。 この間就寝 書くこと無いので 「あっ」 と、いう間に北京。早い。わずか4時間くらいだったと思う (正確な時間はかってに調べてください) 前回の例(内輪話*1)もあるので、慎重にガイドさんをさがす。 私「えーっと、あっいたいた!」 名前の書いてある紙をもった女性を発見! この女性、中国国際旅行社総社(CITS)日本部の姚蘭さんである。 一同、ほっと一安心。やはり最初にあう人って肝心である。 その人の印象でかなりその国のイメージが決められてしまうような きがする。 ともかく、次の難関は運転手さんである。 北京は車がすごい。縦横無尽にかけずり回っている 待つこと.....、どのくらい待ったかなんて覚えていないので割愛。 姚 蘭さん「来ました、あの車です」 一同「どれ、どれ!」なんて言っていないが、話の流れでちょいと入れました。 運転手の梁さんである。すごく優しそうな感じ。いいぞ、この調子だと...。 姚 蘭さんの話だと、運転歴30年(たしか)の名ドライバーだそうだ。 なるほど、温厚な運転である。あーホントにと良かった。 北京と書いてある門をくぐり抜け、闇の中へ.......。 空港からホテルまで、大体1時間位かかるそうだ。 余談だが、中国はドイツ製の車がやたらと多い。聞けば現地との合弁会社が 多いそうだ。サンタナ(フォルクスワーゲン)とかビュイック、ベンツなんて 結構走っていましたね。でも車は庶民には とてもじゃないけど買えないくらい高いらしい。 まじめな話は、また今度。なんせ車が多いって事。 そうこうしている間にホテルへ到着。 着いたのは、大体、えーと、ヨルオソク。(忘れた) もうホテルの売店や、食堂が真っ暗だったのだけ覚えている。 両替もできなかった為、なすすべ無し。あー腹減った!! 「こんな事なら空港で酒とつまみ、買っておけば良かった」と 嘆いても後の祭り。 先生・新ペー「僕たちホテルを探検してきます」 私「勝手にいけ!こちとら腹がすいているんじゃい!!」 私、荷物の整理に余念がない。余念がないというか小さいポケットに 分けて入れているつもりなのだが、分けすぎてどこにあるか、 いつも分からない。 だから整理する。するけどしすぎて分からない。 だから入れ直す。入れ直してみても、やっぱりワカラナイ! 上記の繰り返し。シツコイ!! 何していたかなー?。確かビデオカメラいじくっていたような気がする。 先生・新ペー「ただいま!」 私「おかえり!」なんてイウワケナイ。 先生・新ペー「アカスリ行きません?」 私、無碍に「行かない」 先生・新ペー「なんで?」 私「行きたくないから」←アタリマエ! 先生・新ペー「なんでー一緒に行きましょうよ!」 私「いやぁ、俺はいいよ」・内心「勝手にいけよ!人を誘うなボケ!」 先生・新ペー「そんなこと言わずに...。」 私「いやぁ、本当に行きません」 ・内心「もう、シツコイ勝手に行かんかい!!」 こんなやりとりが、3分くらい続く。っていうか3分も続く。 無駄だから、とっとと行けばいいのに...。 先生・新ペー「じゃぁ僕たち行って来ますね」 私「うん、楽しんできてね」 ←無論、こんなにかわいく、言うワケガナイ。 兎にも角にも奴らは、行きました。金をいっぱ払いに...。 ホテルのアカスリなんて、高いに決まっているじゃない!。 おれは行かないよーだ! その間、当方はというと初中国ホテルを堪能していた。 ...とその時、眠気が僕の体を蝕みだした。 もとい、食い気が体中をはいずり回った。 「そうだ、先生がくれたクッキーがあったはず」 「冷蔵庫はどこ、ドコ?ナーリ?」 テレビの下の観音開き、勇んであければ開きもせず、 落ち着きあければ、動かない。しかし、ここは中国あきらめず、 一所懸命、両腕のばして、両の戸引いたら やっと開きました。 そう、僕は今、まさに、ビールが、ホ・シ・イ!! 「プハ----------------」 うまい!チャム マシッタ。ち、ちがう。ここは中国、「好喝」。 本当に、うまい!確か青島ビールだったと思うが、美味かった。 ここでまじめな話を一つ。 90年代に入り、中国はビールの消費が急伸。 今後も毎年8%前後の成長を続けるといわれており このままいけば数年後には 世界最大のビール消費国であるアメリカを抜くことになる。 中国国内のビールメーカーは、国内外の企業を合わせて約400社。 総生産量は2000万トンを超え生産高でも世界第2位になった。 中国のビールメーカーは中小、零細企業が多いのが特徴で 上位10社を合わせても、そのシェアは30%しかない。 外資系企業や合弁会社は全体の3割程度である。 中国国内最大のビールメーカーは山東省を拠点とする 青島ビールグループで、現在国内シェアが、10.7%となった。 また海外市場でも順調に売上を伸ばしている。 青島ビールは生産量の少ないビールメーカーを積極的に買収、合併し 全国約50箇所の生産拠点で稼動し、 販売網を中国北部から南にも拡大している。 生産量が100万トンを超えるメーカーは 青島ビール、燕京ビール、華潤の三社のみである。 日本のビールメーカーも、中国国内で生産、販売を行っている。 例えばアサヒビールは現在中国国内にひとつの合弁会社と 5つの出資会社を持ち、そのうち深センにある合弁会社では 「超爽(アサヒスーパードライ)」を生産。 価格は他の国内メーカーの3倍で、味は“日本製”にこだわっているが なぜか大都市を中心に売上を伸ばしている。 また南を中心に、台湾企業との合弁で現地生産を行っているキリンビールは、 珠海ブランド」として中価格帯のビールを生産。広東省など南部で販売している。 高価格帯ビールの「一番搾り」も生産、販売を行っているが こちらは上海を中心に販売している。 現在、上海市やその周辺都市でトップシェアを誇るのがサントリー。 84年江蘇省に合弁会社を設立し、以来、上海を中心に販売している。 99年には上海でトップシェアを獲得すると、蘇州や無錫でも販売を強化。 結果、上海や蘇州で40%以上のシェアを誇っている。 低価格帯のビールを生産し、さらに地域をしぼって 販売促進をおこなったのが成功の要因といえる。 そうしたビール戦争にあって、巨大な資本に対抗できない小規模業者が つぎつぎと大企業に吸収合併されている。 数年前まで600社近くあったビール会社は、現在400社まで減ったが この淘汰はしばらくつづきそうだ。このところ 各メーカーを取り巻く環境はめまぐるしく変化している。 「そうそう、先生のクッキーはどこだろう?」 出かけにくれた、クッキーを一所懸命探す!ビールが暖まらないうちに...。 「あった、アッタ!」。本当に幸せである。 「ピンポーン」。部屋のチャイムが鳴り、外を覗くと やたらニコニコしている、新ペーが立っている。 あまりにニコニコしてやがるから、開けるのよそうかと、思ったが しょうがないから、開けてやる。 新ペー「ただいまー」 私「で、どうだったたの」 新ペー「もう、サイコー!」 私「なに、やってもらったの?」 新ペー「マッパでアカスリ!もう肌つるつる!」 私「先生は?」 新ペー「多分、マッサージだと思いますけど....」 相当良かったらしい、顔の筋肉に緊張感がナイ。 でも、聞けば3500円くらい(日本円で)払ったらしい。 大体40分くらいだろうか。おそらく、非常に高い。 でも、本人が喜んでいるのだから、それで良し。 「ピンポーン」。今度は先生のお帰りである。 私「どうだった?」 先生「モーサイコー!」 私「いやに顔がにやけているよ」 先生「だって、マッサージしてもらったから...」 私「誰に?」 先生「21歳!」 先生の今回の旅の目標は90パーセント達成されたと言っても 過言ではあるまい。彼の顔がすべてを物語っている...。 念のため弁護しておくが、イカガワシイ、マッサージでは無いことを 付け加えておく。ちゃんとした、普通のマッサージである。 本当である。嘘ではナイ! 先生「モウモウかわいいって言われた」 私・新ペー「!?!?!?!?!?」 数秒後....。 虎龍・新ペー「毛毛?」 先生「そう、毛毛!」 あー嫌だね、満面の笑み! まぁ、いいや本人、喜んでいるいるのなら! そんなこんなで、一日目の夜は過ぎていくのであった。 (これからやっと二日目に入ります) 続く...
2002年 中国に行った時の旅行記です。
日程 8月15日 成田から北京 泊まる所 新北緯飯店 8月16日 北京郊外観光 (万里の長城、明の十三陵)北京ダックの夕食 8月17日 北京から西安 (出発まで北京市内観光・・・故宮、天安門広場など) 泊まる所 東方大酒店 8月18日 西安市内・郊外観光・ (兵馬俑坑、華清池、秦の始皇帝陵、大雁塔) 兵馬俑坑特別見学 8月19日 西安から上海 上海市内観光 (玉仏寺、豫園など)泊まる所 華東大酒店 8月20日 帰国予定?( もしかしたら、そのままアフガニスタンへ...) 次へ... 電車、ディーゼル車(非電化区間を走っている) 高鐵を乗り継いでの一周である。 既に半年経ってしまっているので 思い出しながら書こうと想う。 (そのあと行った澎湖島は書き上げた) 海關を出て右に曲がり突き当たったあたり。 左手奥に出口がある。(桃園機場フロアマップ) フロアマップは手前が出口になっています。 つまりこの地図では左側にいるって事。 もしSIMカードを買いたいのなら出口を出て 左側にまがる(フロアマップでは右側に位置) もう一度いうが、海關を出て右に曲がり、 みちなりもう一回右に曲がってまっすぐ言ったところに バス券売り場がある。 余談。バスに乗るのは簡単だが バスが走るルートは事前に調べて おいた方が良い。(こちらでどうぞ) 今回乗ったのは飛狗巴士。噂通り最悪。 運転手がずっと携帯で喧嘩していた。 バスの中 まだ晴れている ここら辺りから雲行きが怪しくなってきた。 写真は中山高速公路と新生高架道路とが 交差する辺り。右奥に見えるでかい建物が101(だと想う) その手前の白い建物は臺北市立美術館。 行天宮のバス停。未だ晴れているのが解る。 松江路と民權東路との交差点を越えたら (わずか100mぐらい) どしゃぶり。 ご承知の通り、このバスは台北駅までいきません。 私も今さっきバスの路線図見てきがつきました。 みなさんバスはあわてず乗りましょう♪ ※ちゃんとカウンターで聞いた。 きっと適当に返事されたのだと想う。ムカ! 光復南路にある國聯大飯店のバス停でおろされる。 (もうひとりの女の子(台湾人)もおろされて 怒っていた)すごい土砂降りだから バス停の屋根の下は人だらけ。 私もその女の子も(彼女もスーツケースを持っていた) 入る隙は無し。じっとなんてしていられないから タクシーを捕まえたいのだが、先に待っている人がいて 乗られてしまう。 まぁこれはしょうがない。 マナーだ。 スコールだから通るタクシーも客が殆ど乗っている。 すでにびしょぬれ。 はやく乗りたい やっとの事で空車が来た。 ざんざんぶりの中、一歩路上に出て 手を挙げた!さっきの女の子が視界に入る... 乗れないよね... 車を止めて女の子に「先に乗ってください」と 声をかけた... バケツの水をかぶったぐらいになった時、 やっと車に乗ることができた。 で、やっとのこと着いた台北站。写真は 一樓 列車の切符は全て日本で予約しネット上で カード決済していった。 HPはこちら 交通部臺灣鐵路管理局 予約だけの場合は確か予約した日を含め 二日以内に支払いを済ませなければならないはず。 さて 切符を取りにしかるべき所に 行かなければならないのだが まぁ真剣に探しても疲れるだけなので 予約した際に表示される ”臺灣網路信用卡付款購票取票單”を 持って写真のちょうど裏側にある 案内所?に行ってどうしたらいいのか 聞いてみた。するとなんだか 日本語を話せる”おば様”がいて 國語,日文を混ぜながら一所懸命 説明してくれた。 ”その横に5台並んでいる機械で手に入る”と。 が... しかし、いくら画面を突き進んでも←オオゲサひと画面程度 護照號碼(パスポートNO.)の入力箇所が出てこず 身分證字號(台湾の方々が所有する身分番号)の入力箇所が あるのみ。 哀れに思ったのか後ろに並んでいた おそらく香港の人(台湾人がワカラナイワケガナイという 勝手な思いこみ)が手伝ってくれたが結果は一緒。 っていうか進むわけがない。 護照號碼と電腦代碼が入力できて初めて 確認が採れるのだから。 やむなし。 またさっきの案内所にもどり 出来なかった旨を伝えると 奥から若いお姉さんが登場。 「あそこの機械では無理。ちょっと待ってて」と 言って奥に入っていった。 待つこと1分ぐらい。 「ハイ、これで安心したでしょ!」と言って※小姐用日文講了 台北-花蓮の切符、それと明後日の花蓮-新左営の切符を 手渡してくれた。←やるじゃん!台湾!!! 「あそこの所から階段を下り第四月台(4番プラットフォーム)に行ってね~」 お姉さんが丁寧に教えてくれた。おば様にもお礼を言い、 まだ時間があるので二階の飲食店街へ向かう。 下の写真が二階部分「微風台北站」
とっても綺麗♪
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