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前回は北京についた所まで
朝、確か9時に待ち合わせだったから、7時半かな起きたの...。
眠い目をこすりながら、いざ2階食堂へ!
バイキング形式なので、たらふく採る、取る、捕る。
昨晩からの空腹のせいなのか、非常においしい。
虎龍「あー食べた」
新ペー「いやぁ、おいしかった」
先生「もぉいしい!」
姚蘭さん「おはようございます!!」
すがすがしい!実に爽快な朝だ!
各自、両替をすませ運転手の梁さんと共に
まずは明の十三陵の一つ、万暦帝の定陵へと出発する。
********************
長陵の西南にある定陵は、明の13代皇帝の万暦帝と2人の皇后を埋葬してある。 万暦帝
は22歳で帝位につくと、すぐ自分の墓の造営を始めた。6年の歳月と国費の2年分に相当する巨費を投じて完成した。陵墓といわれず「地下宮殿」というほどの豪華な造りである。酒色におぼれた皇帝は、生前に完成したこの墓の中でも大宴会を開いたといわれている。
地下宮殿は、地下20㍍という深い場所にある。天然クーラーが効いて夏でも寒い。
前、中、後、左、右の5つの殿堂でつながり構成されて、総面積は1195㎡。すべて石造りでアーチ構造になっている。中には発掘された当時の棺(複製品)と、皇帝・皇后の大理石の宝座が展示されている。
この発掘の引き金となったのは小さな石碑であった。その発見のもとになった文字の刻まれた石は、そのまま定陵博物館に陳列されている。
第1室は前殿、いわば宮殿のアプローチに当たる。地面にはレンガが敷かれ、周囲は大理石造りである。第2室には宝座がある。皇帝の座には龍の彫刻、皇后の座には鳳凰の彫刻がされている。一番奥まったところには、棺が三つ並んでいる。中央が皇帝,左右が皇后。
周囲の箱はすべて副葬品になっている。 地下宮殿を出て明楼に上がれば、その他の陵も点々と見え、明代の皇帝の権力がしのばれる。
向かう道の両脇に桃園がいっぱいに広がる。
住所は北京市昌平県十三陵特区
電話番号:010-6076-1424 OPEN時間:8:00~17:40 休日なし
入場料:26元(2002年当時)
交通:徳勝門からバス345路で「昌平」へ、ここで314路に乗り換えて「定陵路口」で下車。
前門から観光バスも出ている。
********************
駐車場に着く。相変わらず、売り子が多い。
本当に多い。スゲー多い。
神路を通って(これって合ってます?)
地下宮殿へと近づく。
余りよく覚えていないが
(そりゃそうです、行ってからもう2ヶ月近くも立っています。)
ものすごく入り口まで混んでいた気がする。
なんか宮殿の周りの庭だかなんだかの周りを一所懸命進む。
やっと入り口。ここからは撮影禁止。
細かく書きたいのですが、
ここはひとつ別サイトにゆずりましょう。
http://www2.fukutoh.co.jp/~koba/chaina/2nd_day2.html
どう?見終わりましたか?まぁこんな所です。
しかしもかかしも中国はすごい。
こんな物作ってしまうのだから...。多分この宮殿だって工事に携わった人たちは大部分はうめられたと思いますよ。なんせ秘密を知っている者ですからね。
入り口にて姚 蘭さんに「アータラコータラ、では何分後」って言われた。
仕方がないのでまずは工場見学。
なんかこの場所すごい観光名所?らしくて
検索していたらこんなの(http://www1.ocn.ne.jp/~maru3sp/page27.html)が出てきました。
そうです、まさにこの青いジャケットを着ていられる方が
私たちに説明をしてくれた方です。(オー懐かしい!!)
が、である。何が"が"ナノか?
まったく覚えていません。
なんせ頭に残っていることと言えば
出口付近にあった地球儀がエライ、エライ、ナオエライ高かったって事かな?
関係ないが移動中にとった映像。
北京にディズニーランドをと言う計画が途中で頓挫した跡だって言っていたよう
な...。誰かこの話知りません?)
広い店内に投げ出されるやいなや「待ってましたと」と
屈強な、もとい可憐な、イヤイヤ昔、可憐だったと思うような方が
まるで街頭のティッシュ配りのねーちゃんみたいに近づいてくる。
一人目。まずはかわす。
二人目。何とかしゃべらずにチャイナドレスが掛かっている茂みに
身を埋める。
「新手が...」今度は笑顔を振りまきながら、カニ走りに
すり寄ってきた。
「ダ、ダメか」。
と、あきらめかけた途端
新ペーの声が...。
「何か良い物ありました?」
とりあえず第一次攻撃はかわしたようだ。
ふたりでブラブラ。あっちこっちブラブラ。
しばらくして気がついた
い、いない。先生がいない。何処行っちゃたんだろう?
(後日、売り子に"拘束"されたいたことが判明)
そこで確か、手の運動するような丸くて音がするやつ買ったような。。
結構、あっさり値引きしてくれたのを覚えています。
姚 蘭さんと梁さんと落ち合う
これから、ちょっと遅めの昼食である。
なんか此処も有名な所みたいで店に入った瞬間ものすごい人、人、また人。
一階がお土産やさんで二階が食事するところになっている。
そして、踊り場(現在死語)で
二人のチャイナ・ドレスを着たおねーさまがしきりに大声で怒鳴り合っている。
○でけんかしているみたいに...
ねーさまA「そっちに伝票あるでしょう!!」
ねーさまB「うるさいわね、さっきから無いって言ってるでしょう!!」
ねーさまA「”うるさい”は余計でしょ!コノトントンチキ」
ねーさまB「な、ナニ!!!!!!!!」
*ちなみにこの人達、おそらく観光の人たちの予約伝票を管理していたと思いますが
この店、なんと300人くらいは余裕で入れる位、大きい店です。
その伝票を多分、二人で仕切っていました。すごいですね
と、そこへ我が部隊の隊長、姚 蘭さん登場です!
姚 蘭さん「どれどれ、ちょっと見せて」と
踊り場嬢の手から伝票をとる。
一同見つめる...ドレスを.........
姚 蘭さん「これは?」
ありました。流石です。
一同席へと向かう。
一度くらいはみんなで食事をしたかったので
運転手さんの梁さんも一緒に食事をしましょうよと
姚 蘭さんに告げると、「ではそうしましょう」ということに...。
(後で考えると初めから5名席だったような...。まぁいいっか)
本来ならガイドさんと運転手さんの食事するところはもっと
奥にあります。
兎も角、まずは食事。
新ペー「う、うまい」
先生「うぉまい」
私「マジ、うまい」
本当においしいです。なんか別に普通なんですよ。
ただただこんな大きいところだから、おそらくいろんな物
使っていると思いますが、なんかなんだろう?
中国に来たという感じをさせてくれます。
本当に普通の料理なんですけどね。。
このツアーなんか食事の旅にビールが一本ついているらしく
(うまい、この商売上手。だって一本で終わるわけが無いじゃない!)
あっという間に飲み干す。・・・もうこの段階で来年もきっと来ようと思いました。
私「すみません、ピージュ」。
止まりません。アタリマエ。
と、その時なにやらテーブルに小さいビンが..。
「白酒と言います」
姚 蘭さんが教えてくれた。
これ呑んで良いんですか? 新ペー素直な質問である。
誰しも思ったであろう。
姚 蘭さん「もちろん!!」
こりゃ止まらない。どうしようもない。
相手の作戦勝ちである。
本当にたらふく食べました。
さぁこの後はお待ちかね?万里の長城です。
万里の長城。
行ってみたかった所のひとつです。
説明はこちら http://www.nicchu.com/beijing/kanko/k01.html)
グレートウォールとしてユネスコの世界遺産の筆頭級にあげられ、中国を代表する最大の史的観光スポットである。北方の外敵からの防御という目的とはいえ、山の峰々や絶壁、あるいは谷、はては川の中にまで張り巡らされた城壁群には圧倒される。と同時に、あまりの壮大さゆえに、プランナーに対してはその英知をめでるというより、日本の戦艦大和の建造に似る、あるいはそれ以上のスケールの愚かさも禁じ得ない。しかし、いま、計数的にそれら費用対効果を論じられるのは現代の視点に立てるからであって、ただただ絶対君主であり続けなければならなかったいにしえの王朝からすれば、対外的軍事戦略というよりは、融合したばかりの国内での心理的統合、あるいは畏怖の確立といった内的効果にも狙いにあったにちがいない。いずれにしても、累々と続出したであろう施工によるあまたの事故犠牲者などをめぐりどんな感慨を抱くにせよ、北京に来て、じかに長城を見て帰らないことには、中国史、また今後の中国、かつ中国人を語ることもできまい、と言えるしろ物だ。
春秋戦国時代のころから、中国国内では北方のみならず、至る所に諸侯による長城が築かれていたが、北方では騎馬民族などの夷敵からの防御のため、東ははるか鴨緑江まで築かれていたといい、いまでも遼寧省内でその遺構が散見される。それぞれの長城をつなぎ合わせれば1 万2700華里(1華里は0.5キロ)となることから、俗称として「万里の長城」の名が生まれたようだ。
紀元前221 年、中国を統一した秦の始皇帝は、それら北方の燕や趙の長城を連結するとともに西方にも延長した。渤海湾岸の山海関から甘肅省の嘉峪関まで、長城を一重のシンプルなものと見れば全長は2700キロに達する。その時代の長城は土をつき固めた比較的簡単なもので、いわば土塁の連続に過ぎない。したがってほとんどが風化されるままで朽ち果てているものも多い。しかし明代、ことに後期になって改めて築かれた長城は大ぶりなれんがで表層を覆い、しばしば修復をくり返した。そのためもあって、山海関から黄河に至る最も堅固な部分が断続的に現存する。北京市域内では、玄関口に当たる居庸関のほか、八達嶺、慕田峪、さらに東北郊密雲県の司馬台などが改めて観光地として整備され、一般向けに公開されている。
********************
八達嶺
北京市内から約75キロ、高速道路を使って1 時間足らずの距離で手軽に長城見学ができる最もポピュラーな箇所。西北郊の延慶県に属す。太行山脈に続く軍都山脈に当たり、なだらかな尾根と小規模な峡谷が連綿と続く高原の入り口に位置する。バスや列車で、後述する居庸関を過ぎて北上するとよく分かるのだが、この付近は最高でも海抜1015メートル程度に過ぎないにもかかわらず、広大な河北平野に位置する北京からは指呼の間にあり、王城北方の後背地の一環として古代の覇権者が軍事的に重要視せざるを得なかったのだ。
車であれば、「工事でだいぶ死んだだろうなあ」と思わざるを得ない、急峻ながけにも築かれた長城の支壁を右側に見やりつつ、高速道路を下りて山間の旧道をしばらく走ると大規模な南麓駐車場に至る。「長城への近道」などと書かれた屋根付きの階段を歩いて登ると鞍部の登城口になる。列車で来た場合、あるいは車でも高速をやや走って八達嶺駅付近を経由すれば直接登城口付近のもうひとつの駐車場に到達できる。八達嶺、休日ともなると、北方に連なる北線には多くの観光客が押し寄せる。
往時、一般の通行を制限する関所としての機能を持ったのが長城の関城だ。下の駐車場から登って最初に長城をくぐる関城の門付近の城壁は高さ7.5 メートル、厚さ4~4.5 メートルだが、ここ以外では7.8 ~9 メートルの高さとなっている。約110 メートルごとに望楼兼のろし台のdun(土偏に敦煌の「敦」)台が築かれ、内部は守備兵の詰め所になっている。といっても、探したがトイレや水場すらなかった。往時は戦場の最前線にもなり得た場だ。dun台を含め、長城本体はそれまでの土塁風のものとは異なり明代に修復された。そのため、故宮などの城壁と同じ、くすんだねずみ色の大ぶりのれんがで四周を固め、より堅固なものとなった。やはりれんがを敷き詰めた城壁の上部は騎馬が5 列、兵士が10 列並べる幅を維持しているという。
小学生の頃、長城の上部は馬が牽引するような古代の戦車が走れると習った記憶があるが、実際には急傾斜の階段部分が多く、戦車は不可能だ。騎馬でさえ登り下りできるかどうかで、要は見張りと伝令役の兵士が徒歩で往復し、急用があれば近接するベースキャンプである居庸関などへ向けのろしを上げればすむ。
凹凸状の矢ざまのある壁面の側が城外、反対側が北京方向となるが、長城が尾根など地形の変化に合わせてくねくねして築かれているため、矢ざますべてが北方に向いているとはいえない。
見学は左右の山の頂きにある望楼まで可能だが、歩いて上るのは登山と同じで健脚者でなければ難しかろう。ただ、そこまで行ければ、なお荒れたままの長城の延長や、はるか彼方の山並みまで遠望できる。なお八達嶺駅側にロープウエーが引かれ、北京から見て左側の長城の望楼へ向け5 分ほどで登れる。
行き方:
著名ホテルを回る中国国際旅行社などが主催する現地ツアーに参加する場合、明十三陵の参観を加えて、ガイド付きなら日本円で5000円以上かかる。少しでも中国語ができる方なら、前門の東北の角のバス停から市交通局の「游1」ツアーバス(ガイドなしの個人参加)がある。また徳勝門から919路長距離バスに乗れば10元ですむ。国鉄八達嶺駅付近に着く。さらにマニアックな方向けに、北京北駅から国鉄京包線の直通旅游列車に乗って直接八達嶺駅へ行く方法もあり、この場合も快速・空調代込みで10元。バスは約1時間、列車は約2時間の所要だが、観光を含めていずれも半日~1日がかりとなる。
入場料:
八達嶺登城口で傷害保険込み36元。
南線ロープウェー料金:
片道40元、往復50元。
(2002年当時の価格です)
********************
姚 蘭さん「男坂と女坂がありますが、どちらにしますか?」
私「そりゃ、人が行かない方」
へそまがり。
結局、急勾配な男坂の方へ...。
と上りだしてまもなく、売り子さんの登場!!
頑張っています。力強いですね。日本のみなさんも
このくらい、頑張ってくださいね!
客と売り子の戦い。がんばれ先生、がんばれ売り子さん!
っていうか、いらないならハッキリ「いらない、不要(ブーヤオ)」って
言えばいいのに...。
向こうも暇じゃないから、買う気が無いと解れば、相手にされなくなるのに...。
ま、そこが先生いいところ。
のぼる。のぼる。の・ぼ・る。の・・ぼ・・る。の・・・ぼ・・・・
きつい。ハッキリ言って壁と同じくらい(大げさでは ない と思う)
私「いいよ此処で待っているから行って来な」と
若い二人に先を託したのであった。
私「勝手にいけ!こっちは歳じゃ」
姚 蘭さんとしばし、そこで待つことにした。
だってガイドさんだって嫌でしょう?
一ヶ月の間に何回のぼるのでしょうから。
しばらくして、先生と新ペーが戻ってきた。
長城、良かったです。
夢にまで見たものに、行くことが出来たと言うことは...。
久々に更新。なんと中国に行ってから
一年が過ぎました。
だのに...だのにまだ、去年の事を書いているとは。
情けないやら、はずかしいやら。
でも、やり始めたことなので一応最後まで掲載しようと思います。
(記憶が曖昧なので時々、フィクションになるかも)
さて、長城を降り、お決まり通りに「土産の関所」へと向かう。
しかし、ガイドさんたちはここを「休憩所」と呼ぶ。
「しばらく休んでいてください」
そう言い残し姚 蘭さんは、何処かに消えていた。
さぁこれからが大変だ。
茶が出される。
飲む。
話しかけられる。
寸時も間が無くたたみかけられる。
もうだいぶ慣れていたので、新ぺーと私はシカトを決め込んだ。
しかし。そうです。やはり人のいい、濛々先生。。
水晶(売り子さんはそう言っていた)を必死に勧められる。
「いくらするんですか?」
だいぶ高いらしい。
先生、必死に指輪を見せる。「最近結婚したばかりでお金が無いんです」
無駄だろう。説明しても。
当然のごとく、さらなる「口撃」は続く。
「じゃぁ奥さんに何かかってあげなさい!」
売り子さんも仕事。そりゃ遊びじゃ無いのだから、真剣なのはごもっとも。
いろいろと説明して、お金が無い旨を説明する先生。
日本語で。
「いま妻がこれで。。」とおなかに手をそえ、大きく弧を描く仕草をする。
そう...子供がお腹にいる事を言っているらしい。
だが敵もさるもの。
「そうか、そうか、それはおめでとう!!コングラッチレイション!」
「じゃぁ安産のお守りがこちらにあるから、見てみなさい!」
商魂たくましいとはまさに、このことだろう。ガラスケースの前で
ものすごい勢いで商品説明を続ける”売り子さん”。
学ぶべきものがここ"4000年の中国"にあった。
商売とはコウダッタンダ!
文章にするとわずかに、こんなものだがこの攻防おそらく
20分ぐらいは続いたと思う。
終いには先生「やめてー!」って耳に手をあてて
泣き叫んでいた。
「では、行きますか!」
救世主の女神が現れた。
姚 蘭さんの登場である。
梁さん運転する車で今度は天壇公園へと向かう。
********************
天壇公園
明の永楽帝によって造られた面積273万㎡の公園である。
明・清時代に皇帝が豊年を天に祈願した場所。
外垣は≒6.4Kmさらに内垣で仕切られた敷地には南より圜丘壇、皇穹宇、祈年殿が並んでいる。
祈年殿 直径30m、高さ38mの円形の建物である。
円形の3層の大理石の基壇上に建てられ屋根は3重の瑠璃瓦で葺かれている。
28本の柱で支えられおり釘は1本も使われていないそうです。
祈年殿の年は稔(実り)の意味があり、毎年正月、天子は皇天上帝を祀って五穀豊穣を祈った。
皇穹宇 青い瑠璃瓦の円錐形の屋根をもつ木造建築物で歴代皇帝の神位を奉っておくところ。回音壁 建物(皇穹宇)を囲う直径65mの円垣は垣に近づきささやくと遠くの人に聞こえるという所からその名がきた。私は手を叩いてみたが伝わるようであった。
圜丘壇 毎年冬至に皇帝が登り天を仰いでその年の豊作を祈った所だそうです。明清時代に皇帝が天に五穀豊穣を祈った所。中国に現存する最大の祭祀建造物。市街南部,かつての北京外城部の崇文区の4分の1を占める公園となっている。左写真の祈年殿は,この公園を代表する円形の木造建築で,3層の大理石の壇上に建つ。高さ38m,直径30m。中央には円形の石があり,自然の龍紋がある。内部中央の4本の柱(龍井柱)は四季を表し,周りの12本の金柱は12ヶ月を,その外の12本の柱は12の時刻をそれぞれ表している
********************
さて、高速道路を突っ走り目的地へと向かうわけだが
途中、公安に車を止めろと手招きされる場面に遭遇。
梁さん、そこは慣れたもの。
車のウインカーをだし、するすると公安の方へと向かう。。
と近づき車を止めそうになった瞬間、車はフルアクセルで急発進。
爆走、いや逃走である。
リヤウィンドに映る、なさけない公安。
なんでも、まじめに止まる人なんていないらしい。
それに公安が使用している車より、民間の人が使用する車両のほうが
断然早いので、追いつかないとも。
こりゃこりゃ。。
しばらく走り、目的地”天壇公園”へと到着。
天壇の南門、昭亭門から入り
長い、長い、神の道を歩き中心部へと向かう。
途中、日本の歌謡曲が流れているのを聞くも、そのときは題名がわからなかった。
帰国後ビデオで「グッパイマイラブ」アン・ルイスの曲と確認。
この天壇公園の神の道近くでは盛んに凧揚げが行われていた。
自分も小さな頃はよく作ったものだ。自作の糸巻きなんかで揚げていたっけ。。
こんな長閑な日常を取り戻したいな...なんてね...
ここ天壇公園の説明は他のサイトに譲るとしよう。。
圜丘壇、皇穹宇、回音壁など一通り見て、七十二長廊を通って外へと向かう。
七十二長廊では普通の北京市民が歌や楽器の演奏を披露していた。
実にいい感じである。
次は北京ダック
私の記憶が確かなら全聚徳(支店名は解らない)に行ったと思う。
(もし店内の画像を見て違っていたら連絡してください)
のんだ、呑んだ。白酒。
またここのお姉さんが商売上手。。
たちまち、お土産まで買わされてしまった。
すっかりいい気分になって梨園劇場にて、京劇を見た。
(ごめんなさい、これも曖昧な記憶です)
どうやら三岔口という演目だったらしい。
上演時間:30分、上演人数:3人
任堂恵は島流しになった焦賛を密かに護衛しようと後を追っています。ある日、三叉路=三岔口 近くの宿に泊まることにしますが、
宿の主人劉利華は、任堂恵を焦賛暗殺の刺客と勘違い。
2人は暗闇の中で、大立ち回りとなります。
最後に焦賛 が現れて、任堂恵と劉利華の2人が 味方同士とわかるまで、ドキドキ、ハラハラ。とっても緊張しているのに、笑いがこらえきれない。京劇の名作です。
これはどこかのサイトからの抜粋。
後に西安に行ってガイドさんに「京劇みたよ」って言ったら
「なんであんなに退屈なもの見られるの?」と言われた。
やはり国内でも郷土意識が強いんだろうなと感じた。
続く...
朝、確か9時に待ち合わせだったから、7時半かな起きたの...。
眠い目をこすりながら、いざ2階食堂へ!
バイキング形式なので、たらふく採る、取る、捕る。
昨晩からの空腹のせいなのか、非常においしい。
虎龍「あー食べた」
新ペー「いやぁ、おいしかった」
先生「もぉいしい!」
姚蘭さん「おはようございます!!」
すがすがしい!実に爽快な朝だ!
各自、両替をすませ運転手の梁さんと共に
まずは明の十三陵の一つ、万暦帝の定陵へと出発する。
********************
長陵の西南にある定陵は、明の13代皇帝の万暦帝と2人の皇后を埋葬してある。 万暦帝
は22歳で帝位につくと、すぐ自分の墓の造営を始めた。6年の歳月と国費の2年分に相当する巨費を投じて完成した。陵墓といわれず「地下宮殿」というほどの豪華な造りである。酒色におぼれた皇帝は、生前に完成したこの墓の中でも大宴会を開いたといわれている。
地下宮殿は、地下20㍍という深い場所にある。天然クーラーが効いて夏でも寒い。
前、中、後、左、右の5つの殿堂でつながり構成されて、総面積は1195㎡。すべて石造りでアーチ構造になっている。中には発掘された当時の棺(複製品)と、皇帝・皇后の大理石の宝座が展示されている。
この発掘の引き金となったのは小さな石碑であった。その発見のもとになった文字の刻まれた石は、そのまま定陵博物館に陳列されている。
第1室は前殿、いわば宮殿のアプローチに当たる。地面にはレンガが敷かれ、周囲は大理石造りである。第2室には宝座がある。皇帝の座には龍の彫刻、皇后の座には鳳凰の彫刻がされている。一番奥まったところには、棺が三つ並んでいる。中央が皇帝,左右が皇后。
周囲の箱はすべて副葬品になっている。 地下宮殿を出て明楼に上がれば、その他の陵も点々と見え、明代の皇帝の権力がしのばれる。
向かう道の両脇に桃園がいっぱいに広がる。
住所は北京市昌平県十三陵特区
電話番号:010-6076-1424 OPEN時間:8:00~17:40 休日なし
入場料:26元(2002年当時)
交通:徳勝門からバス345路で「昌平」へ、ここで314路に乗り換えて「定陵路口」で下車。
前門から観光バスも出ている。
********************
駐車場に着く。相変わらず、売り子が多い。
本当に多い。スゲー多い。
神路を通って(これって合ってます?)
地下宮殿へと近づく。
余りよく覚えていないが
(そりゃそうです、行ってからもう2ヶ月近くも立っています。)
ものすごく入り口まで混んでいた気がする。
なんか宮殿の周りの庭だかなんだかの周りを一所懸命進む。
やっと入り口。ここからは撮影禁止。
細かく書きたいのですが、
ここはひとつ別サイトにゆずりましょう。
http://www2.fukutoh.co.jp/~koba/chaina/2nd_day2.html
どう?見終わりましたか?まぁこんな所です。
しかしもかかしも中国はすごい。
こんな物作ってしまうのだから...。多分この宮殿だって工事に携わった人たちは大部分はうめられたと思いますよ。なんせ秘密を知っている者ですからね。
入り口にて姚 蘭さんに「アータラコータラ、では何分後」って言われた。
仕方がないのでまずは工場見学。
なんかこの場所すごい観光名所?らしくて
検索していたらこんなの(http://www1.ocn.ne.jp/~maru3sp/page27.html)が出てきました。
そうです、まさにこの青いジャケットを着ていられる方が
私たちに説明をしてくれた方です。(オー懐かしい!!)
が、である。何が"が"ナノか?
まったく覚えていません。
なんせ頭に残っていることと言えば
出口付近にあった地球儀がエライ、エライ、ナオエライ高かったって事かな?
関係ないが移動中にとった映像。
北京にディズニーランドをと言う計画が途中で頓挫した跡だって言っていたよう
な...。誰かこの話知りません?)
広い店内に投げ出されるやいなや「待ってましたと」と
屈強な、もとい可憐な、イヤイヤ昔、可憐だったと思うような方が
まるで街頭のティッシュ配りのねーちゃんみたいに近づいてくる。
一人目。まずはかわす。
二人目。何とかしゃべらずにチャイナドレスが掛かっている茂みに
身を埋める。
「新手が...」今度は笑顔を振りまきながら、カニ走りに
すり寄ってきた。
「ダ、ダメか」。
と、あきらめかけた途端
新ペーの声が...。
「何か良い物ありました?」
とりあえず第一次攻撃はかわしたようだ。
ふたりでブラブラ。あっちこっちブラブラ。
しばらくして気がついた
い、いない。先生がいない。何処行っちゃたんだろう?
(後日、売り子に"拘束"されたいたことが判明)
そこで確か、手の運動するような丸くて音がするやつ買ったような。。
結構、あっさり値引きしてくれたのを覚えています。
姚 蘭さんと梁さんと落ち合う
これから、ちょっと遅めの昼食である。
なんか此処も有名な所みたいで店に入った瞬間ものすごい人、人、また人。
一階がお土産やさんで二階が食事するところになっている。
そして、踊り場(現在死語)で
二人のチャイナ・ドレスを着たおねーさまがしきりに大声で怒鳴り合っている。
○でけんかしているみたいに...
ねーさまA「そっちに伝票あるでしょう!!」
ねーさまB「うるさいわね、さっきから無いって言ってるでしょう!!」
ねーさまA「”うるさい”は余計でしょ!コノトントンチキ」
ねーさまB「な、ナニ!!!!!!!!」
*ちなみにこの人達、おそらく観光の人たちの予約伝票を管理していたと思いますが
この店、なんと300人くらいは余裕で入れる位、大きい店です。
その伝票を多分、二人で仕切っていました。すごいですね
と、そこへ我が部隊の隊長、姚 蘭さん登場です!
姚 蘭さん「どれどれ、ちょっと見せて」と
踊り場嬢の手から伝票をとる。
一同見つめる...ドレスを.........
姚 蘭さん「これは?」
ありました。流石です。
一同席へと向かう。
一度くらいはみんなで食事をしたかったので
運転手さんの梁さんも一緒に食事をしましょうよと
姚 蘭さんに告げると、「ではそうしましょう」ということに...。
(後で考えると初めから5名席だったような...。まぁいいっか)
本来ならガイドさんと運転手さんの食事するところはもっと
奥にあります。
兎も角、まずは食事。
新ペー「う、うまい」
先生「うぉまい」
私「マジ、うまい」
本当においしいです。なんか別に普通なんですよ。
ただただこんな大きいところだから、おそらくいろんな物
使っていると思いますが、なんかなんだろう?
中国に来たという感じをさせてくれます。
本当に普通の料理なんですけどね。。
このツアーなんか食事の旅にビールが一本ついているらしく
(うまい、この商売上手。だって一本で終わるわけが無いじゃない!)
あっという間に飲み干す。・・・もうこの段階で来年もきっと来ようと思いました。
私「すみません、ピージュ」。
止まりません。アタリマエ。
と、その時なにやらテーブルに小さいビンが..。
「白酒と言います」
姚 蘭さんが教えてくれた。
これ呑んで良いんですか? 新ペー素直な質問である。
誰しも思ったであろう。
姚 蘭さん「もちろん!!」
こりゃ止まらない。どうしようもない。
相手の作戦勝ちである。
本当にたらふく食べました。
さぁこの後はお待ちかね?万里の長城です。
万里の長城。
行ってみたかった所のひとつです。
説明はこちら http://www.nicchu.com/beijing/kanko/k01.html)
グレートウォールとしてユネスコの世界遺産の筆頭級にあげられ、中国を代表する最大の史的観光スポットである。北方の外敵からの防御という目的とはいえ、山の峰々や絶壁、あるいは谷、はては川の中にまで張り巡らされた城壁群には圧倒される。と同時に、あまりの壮大さゆえに、プランナーに対してはその英知をめでるというより、日本の戦艦大和の建造に似る、あるいはそれ以上のスケールの愚かさも禁じ得ない。しかし、いま、計数的にそれら費用対効果を論じられるのは現代の視点に立てるからであって、ただただ絶対君主であり続けなければならなかったいにしえの王朝からすれば、対外的軍事戦略というよりは、融合したばかりの国内での心理的統合、あるいは畏怖の確立といった内的効果にも狙いにあったにちがいない。いずれにしても、累々と続出したであろう施工によるあまたの事故犠牲者などをめぐりどんな感慨を抱くにせよ、北京に来て、じかに長城を見て帰らないことには、中国史、また今後の中国、かつ中国人を語ることもできまい、と言えるしろ物だ。
春秋戦国時代のころから、中国国内では北方のみならず、至る所に諸侯による長城が築かれていたが、北方では騎馬民族などの夷敵からの防御のため、東ははるか鴨緑江まで築かれていたといい、いまでも遼寧省内でその遺構が散見される。それぞれの長城をつなぎ合わせれば1 万2700華里(1華里は0.5キロ)となることから、俗称として「万里の長城」の名が生まれたようだ。
紀元前221 年、中国を統一した秦の始皇帝は、それら北方の燕や趙の長城を連結するとともに西方にも延長した。渤海湾岸の山海関から甘肅省の嘉峪関まで、長城を一重のシンプルなものと見れば全長は2700キロに達する。その時代の長城は土をつき固めた比較的簡単なもので、いわば土塁の連続に過ぎない。したがってほとんどが風化されるままで朽ち果てているものも多い。しかし明代、ことに後期になって改めて築かれた長城は大ぶりなれんがで表層を覆い、しばしば修復をくり返した。そのためもあって、山海関から黄河に至る最も堅固な部分が断続的に現存する。北京市域内では、玄関口に当たる居庸関のほか、八達嶺、慕田峪、さらに東北郊密雲県の司馬台などが改めて観光地として整備され、一般向けに公開されている。
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八達嶺
北京市内から約75キロ、高速道路を使って1 時間足らずの距離で手軽に長城見学ができる最もポピュラーな箇所。西北郊の延慶県に属す。太行山脈に続く軍都山脈に当たり、なだらかな尾根と小規模な峡谷が連綿と続く高原の入り口に位置する。バスや列車で、後述する居庸関を過ぎて北上するとよく分かるのだが、この付近は最高でも海抜1015メートル程度に過ぎないにもかかわらず、広大な河北平野に位置する北京からは指呼の間にあり、王城北方の後背地の一環として古代の覇権者が軍事的に重要視せざるを得なかったのだ。
車であれば、「工事でだいぶ死んだだろうなあ」と思わざるを得ない、急峻ながけにも築かれた長城の支壁を右側に見やりつつ、高速道路を下りて山間の旧道をしばらく走ると大規模な南麓駐車場に至る。「長城への近道」などと書かれた屋根付きの階段を歩いて登ると鞍部の登城口になる。列車で来た場合、あるいは車でも高速をやや走って八達嶺駅付近を経由すれば直接登城口付近のもうひとつの駐車場に到達できる。八達嶺、休日ともなると、北方に連なる北線には多くの観光客が押し寄せる。
往時、一般の通行を制限する関所としての機能を持ったのが長城の関城だ。下の駐車場から登って最初に長城をくぐる関城の門付近の城壁は高さ7.5 メートル、厚さ4~4.5 メートルだが、ここ以外では7.8 ~9 メートルの高さとなっている。約110 メートルごとに望楼兼のろし台のdun(土偏に敦煌の「敦」)台が築かれ、内部は守備兵の詰め所になっている。といっても、探したがトイレや水場すらなかった。往時は戦場の最前線にもなり得た場だ。dun台を含め、長城本体はそれまでの土塁風のものとは異なり明代に修復された。そのため、故宮などの城壁と同じ、くすんだねずみ色の大ぶりのれんがで四周を固め、より堅固なものとなった。やはりれんがを敷き詰めた城壁の上部は騎馬が5 列、兵士が10 列並べる幅を維持しているという。
小学生の頃、長城の上部は馬が牽引するような古代の戦車が走れると習った記憶があるが、実際には急傾斜の階段部分が多く、戦車は不可能だ。騎馬でさえ登り下りできるかどうかで、要は見張りと伝令役の兵士が徒歩で往復し、急用があれば近接するベースキャンプである居庸関などへ向けのろしを上げればすむ。
凹凸状の矢ざまのある壁面の側が城外、反対側が北京方向となるが、長城が尾根など地形の変化に合わせてくねくねして築かれているため、矢ざますべてが北方に向いているとはいえない。
見学は左右の山の頂きにある望楼まで可能だが、歩いて上るのは登山と同じで健脚者でなければ難しかろう。ただ、そこまで行ければ、なお荒れたままの長城の延長や、はるか彼方の山並みまで遠望できる。なお八達嶺駅側にロープウエーが引かれ、北京から見て左側の長城の望楼へ向け5 分ほどで登れる。
行き方:
著名ホテルを回る中国国際旅行社などが主催する現地ツアーに参加する場合、明十三陵の参観を加えて、ガイド付きなら日本円で5000円以上かかる。少しでも中国語ができる方なら、前門の東北の角のバス停から市交通局の「游1」ツアーバス(ガイドなしの個人参加)がある。また徳勝門から919路長距離バスに乗れば10元ですむ。国鉄八達嶺駅付近に着く。さらにマニアックな方向けに、北京北駅から国鉄京包線の直通旅游列車に乗って直接八達嶺駅へ行く方法もあり、この場合も快速・空調代込みで10元。バスは約1時間、列車は約2時間の所要だが、観光を含めていずれも半日~1日がかりとなる。
入場料:
八達嶺登城口で傷害保険込み36元。
南線ロープウェー料金:
片道40元、往復50元。
(2002年当時の価格です)
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姚 蘭さん「男坂と女坂がありますが、どちらにしますか?」
私「そりゃ、人が行かない方」
へそまがり。
結局、急勾配な男坂の方へ...。
と上りだしてまもなく、売り子さんの登場!!
頑張っています。力強いですね。日本のみなさんも
このくらい、頑張ってくださいね!
客と売り子の戦い。がんばれ先生、がんばれ売り子さん!
っていうか、いらないならハッキリ「いらない、不要(ブーヤオ)」って
言えばいいのに...。
向こうも暇じゃないから、買う気が無いと解れば、相手にされなくなるのに...。
ま、そこが先生いいところ。
のぼる。のぼる。の・ぼ・る。の・・ぼ・・る。の・・・ぼ・・・・
きつい。ハッキリ言って壁と同じくらい(大げさでは ない と思う)
私「いいよ此処で待っているから行って来な」と
若い二人に先を託したのであった。
私「勝手にいけ!こっちは歳じゃ」
姚 蘭さんとしばし、そこで待つことにした。
だってガイドさんだって嫌でしょう?
一ヶ月の間に何回のぼるのでしょうから。
しばらくして、先生と新ペーが戻ってきた。
長城、良かったです。
夢にまで見たものに、行くことが出来たと言うことは...。
久々に更新。なんと中国に行ってから
一年が過ぎました。
だのに...だのにまだ、去年の事を書いているとは。
情けないやら、はずかしいやら。
でも、やり始めたことなので一応最後まで掲載しようと思います。
(記憶が曖昧なので時々、フィクションになるかも)
さて、長城を降り、お決まり通りに「土産の関所」へと向かう。
しかし、ガイドさんたちはここを「休憩所」と呼ぶ。
「しばらく休んでいてください」
そう言い残し姚 蘭さんは、何処かに消えていた。
さぁこれからが大変だ。
茶が出される。
飲む。
話しかけられる。
寸時も間が無くたたみかけられる。
もうだいぶ慣れていたので、新ぺーと私はシカトを決め込んだ。
しかし。そうです。やはり人のいい、濛々先生。。
水晶(売り子さんはそう言っていた)を必死に勧められる。
「いくらするんですか?」
だいぶ高いらしい。
先生、必死に指輪を見せる。「最近結婚したばかりでお金が無いんです」
無駄だろう。説明しても。
当然のごとく、さらなる「口撃」は続く。
「じゃぁ奥さんに何かかってあげなさい!」
売り子さんも仕事。そりゃ遊びじゃ無いのだから、真剣なのはごもっとも。
いろいろと説明して、お金が無い旨を説明する先生。
日本語で。
「いま妻がこれで。。」とおなかに手をそえ、大きく弧を描く仕草をする。
そう...子供がお腹にいる事を言っているらしい。
だが敵もさるもの。
「そうか、そうか、それはおめでとう!!コングラッチレイション!」
「じゃぁ安産のお守りがこちらにあるから、見てみなさい!」
商魂たくましいとはまさに、このことだろう。ガラスケースの前で
ものすごい勢いで商品説明を続ける”売り子さん”。
学ぶべきものがここ"4000年の中国"にあった。
商売とはコウダッタンダ!
文章にするとわずかに、こんなものだがこの攻防おそらく
20分ぐらいは続いたと思う。
終いには先生「やめてー!」って耳に手をあてて
泣き叫んでいた。
「では、行きますか!」
救世主の女神が現れた。
姚 蘭さんの登場である。
梁さん運転する車で今度は天壇公園へと向かう。
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天壇公園
明の永楽帝によって造られた面積273万㎡の公園である。
明・清時代に皇帝が豊年を天に祈願した場所。
外垣は≒6.4Kmさらに内垣で仕切られた敷地には南より圜丘壇、皇穹宇、祈年殿が並んでいる。
祈年殿 直径30m、高さ38mの円形の建物である。
円形の3層の大理石の基壇上に建てられ屋根は3重の瑠璃瓦で葺かれている。
28本の柱で支えられおり釘は1本も使われていないそうです。
祈年殿の年は稔(実り)の意味があり、毎年正月、天子は皇天上帝を祀って五穀豊穣を祈った。
皇穹宇 青い瑠璃瓦の円錐形の屋根をもつ木造建築物で歴代皇帝の神位を奉っておくところ。回音壁 建物(皇穹宇)を囲う直径65mの円垣は垣に近づきささやくと遠くの人に聞こえるという所からその名がきた。私は手を叩いてみたが伝わるようであった。
圜丘壇 毎年冬至に皇帝が登り天を仰いでその年の豊作を祈った所だそうです。明清時代に皇帝が天に五穀豊穣を祈った所。中国に現存する最大の祭祀建造物。市街南部,かつての北京外城部の崇文区の4分の1を占める公園となっている。左写真の祈年殿は,この公園を代表する円形の木造建築で,3層の大理石の壇上に建つ。高さ38m,直径30m。中央には円形の石があり,自然の龍紋がある。内部中央の4本の柱(龍井柱)は四季を表し,周りの12本の金柱は12ヶ月を,その外の12本の柱は12の時刻をそれぞれ表している
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さて、高速道路を突っ走り目的地へと向かうわけだが
途中、公安に車を止めろと手招きされる場面に遭遇。
梁さん、そこは慣れたもの。
車のウインカーをだし、するすると公安の方へと向かう。。
と近づき車を止めそうになった瞬間、車はフルアクセルで急発進。
爆走、いや逃走である。
リヤウィンドに映る、なさけない公安。
なんでも、まじめに止まる人なんていないらしい。
それに公安が使用している車より、民間の人が使用する車両のほうが
断然早いので、追いつかないとも。
こりゃこりゃ。。
しばらく走り、目的地”天壇公園”へと到着。
天壇の南門、昭亭門から入り
長い、長い、神の道を歩き中心部へと向かう。
途中、日本の歌謡曲が流れているのを聞くも、そのときは題名がわからなかった。
帰国後ビデオで「グッパイマイラブ」アン・ルイスの曲と確認。
この天壇公園の神の道近くでは盛んに凧揚げが行われていた。
自分も小さな頃はよく作ったものだ。自作の糸巻きなんかで揚げていたっけ。。
こんな長閑な日常を取り戻したいな...なんてね...
ここ天壇公園の説明は他のサイトに譲るとしよう。。
圜丘壇、皇穹宇、回音壁など一通り見て、七十二長廊を通って外へと向かう。
七十二長廊では普通の北京市民が歌や楽器の演奏を披露していた。
実にいい感じである。
次は北京ダック
私の記憶が確かなら全聚徳(支店名は解らない)に行ったと思う。
(もし店内の画像を見て違っていたら連絡してください)
のんだ、呑んだ。白酒。
またここのお姉さんが商売上手。。
たちまち、お土産まで買わされてしまった。
すっかりいい気分になって梨園劇場にて、京劇を見た。
(ごめんなさい、これも曖昧な記憶です)
どうやら三岔口という演目だったらしい。
上演時間:30分、上演人数:3人
任堂恵は島流しになった焦賛を密かに護衛しようと後を追っています。ある日、三叉路=三岔口 近くの宿に泊まることにしますが、
宿の主人劉利華は、任堂恵を焦賛暗殺の刺客と勘違い。
2人は暗闇の中で、大立ち回りとなります。
最後に焦賛 が現れて、任堂恵と劉利華の2人が 味方同士とわかるまで、ドキドキ、ハラハラ。とっても緊張しているのに、笑いがこらえきれない。京劇の名作です。
これはどこかのサイトからの抜粋。
後に西安に行ってガイドさんに「京劇みたよ」って言ったら
「なんであんなに退屈なもの見られるの?」と言われた。
やはり国内でも郷土意識が強いんだろうなと感じた。
続く...
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