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巧詐は拙誠に如かず


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  涯もなく続くあじさいの生垣が、焦点の定まらぬ瞳になだれ込んできた。
「どうして私だけ許すの!」
  妻は手にしたあじさいの花束を、広橋の背中に投げつけた。
  路上に落ちた一枝を拾い上げて、広橋秀彦は花のいろを宿した厚い眼鏡を、静かに妻に振り向けた。
「わからないのか、そんなことが」
  続く言葉を打ち消そうとでもするかのように、頭上の木々が立ち騒いだ。精霊の仕業のように思えて、広橋は天を仰いだ。


「女の心変わりは許せても、男の変節は許せない―――それだけのことだ」










総理、各国の軍部や諜報機関が弱体化していく最大の理由をご存じですかな?まさに今、総理が言われたことが原因です。組織のトップに立つ人間が、自身の利権争いの道具として組織を利用し始めたときから、ゆるやかな死が始まります

─ 荒巻大輔

自分自身を現況に合わせる努力をせず、且つまた自分自身が現況から、かけ離れた判断しか出来ない年齢に達しているにも関わらず、過去を崇め、妄想片手に暴走を始めたとき、組織、経営の緩やかな死が確定する。

こちらからの転載です。

http://baka7.seesaa.net/article/239910020.html


人格障害 「自分の常識は世界の常識」といわんばかりに、自分勝手に周りを振り回す人 自分勝手で、思いこみだけで行動し言うことがころころ変わる。そして極端に感情的になる困った人。

他人を利用ばかりしている
すぐばれるウソを平気でつく
何を考えているのかよくわからない
まわりの人と馴染もうとしない
訳も無く怒り出す
こちらの話を聞かない

意地が悪い
融通が利かない
変なオカルトを信じきっている
態度や意見がころころ変わる
いつも責任転嫁する
出身をひけらかす
嫉妬深い
疑り深い
金銭的に汚い

自分の仕事の仕方を周りに強要する
いつも自分が中心にいないと機嫌が悪い
自分を特別扱いにすることを要求する



●あからさまな傲慢さ  尊大で横柄な、また大げさで相手に軽蔑的な態度をとります。
●対人関係での搾取  当然の権利だと考えています。常に相手に対して自分を特別扱いするよう求めます。
はずかしげもなく、自分が目立つためや願いを叶えるために他人を利用するのは当然のことと考えています。
●客観的事実はどうでもよく、事実を勝手に曲げ、自分に対する錯覚を必要とあらばうそをつくこともかまわない。
●自己像の賞賛  自分は価値があり、特別で、誇大的で自信に満ちた行動をとります。
他人にはわがままで、軽率で、おおちゃくな人間だとみられているにもかかわらず、自分の価値を信じています。
●他人へのわざとらしさ  過去の対人関係はいいように記憶が変えられています。
受け入れることができない過去の出来事や苦しみは簡単に作り直されます。
●合理化のメカニズム  自己中心的で周囲に対して思いやりに欠けた行動を正当化するために、
もっともらしい理由を付けようとする。それらは欺瞞的で浅はかなものです。
●偽り  みえみえのうそをつきます。失敗をしてもすぐに埋め合わされ、プライドはすぐに復活します。


【自己愛性人格障害】

その原因は母親の過保護と父親の不在です。
そのおかげでいつも自分は特別なものだと感じています。
そのため、誰かに自分のことを非難されるのをとても耐えることができません。
自分は特別な人間だと感じ、様々な対人関係の障害がでてくるのが特徴です。
まわりの人間は自分を敬うのが当然と感じ、他人への思いやりに欠けます。
究極の自己中心的な人間、裸の王様がこの自己愛性人格障害です。
この自己愛性人格障害には、大きく二つのタイプが存在すると言われています。

ひとつは無自覚タイプです。これは日本に多いタイプで、まさに自己中心の塊です。
多くは、母親の過保護によって生じます。愛情を注がれ過ぎたために起きます。
「特別な子供」扱いすることで、「私は特別な人間なんだ」と思い込んでるのです。
厚顔無恥、誇大、顕示欲の強さなどがこのタイプの特徴です。
過敏性が強く密かな自己愛を持っているのが特徴です。
共通しているのは「自分は特別だ」と思っていることです。
また、「独特で」「完璧な」「才能がある」と自分を表現し、「普通の人には理解できない」と感じているようです。



【 境界性人格障害 】の人は自分の考えを相手に理解してもらえないことにとても不快感を抱いてしまいます。

境界性人格障害の特徴の1つに「感情のコントロールが困難」というものがあります。

感情の不安定さが特徴です。
他人に対する感情も、自分に対する感情や評価も、とても不安定なのが境界性人格障害の特徴です。

周囲を困らせることも特徴のひとつです。
他人を思うままに操作する傾向もあります。


【 強迫性パーソナリティー障害 】
テンションが高くなって、妙に張り切ってしまうような人
自分に対する周囲の評価に気付いていない、「裸の王様」
日ごろから何でもないことまでひとりで大騒ぎしたあげく、大問題にしてしまう。困難な問題を解決する自分と言う、作られた自己像に酔っているのかもしれません。
瑣末なことにまで口を出してうるさいタイプは、支配欲求が強く、すべてを自分の支配下に置き、把握しておかないと安心できない人です。つまり、不安感と強迫観念がかなり強い性格

共感能力の欠如
   ●こちらの話をまったく聞いてくれない人
   ●まわりの人とまったく馴染もうとしない人
   ●底意地が悪い人
   ●一緒に喜んだり悲しんだりしてくれない人
   ●いつも他人に責任転嫁する人
   ●他人の親切を素直に受け入れない人
   ●ありもしない悪口を言いふらす人

相手の立場に自分を置いて、相手の心をあれやこれや想像する、これまた大切なコミュニケーション能力が欠如




躁鬱病(躁うつ病)。
非常に気分がよく、やる気もあり、自分では絶好調のつもりで新しいことを始めます(多幸感がなく、イライラの強い不機嫌な躁もあります)。
しかし、すぐ気が変わり、いろいろなものに手をつけるので、実際の仕事ははかどりません。また、ささいなことで激怒します。一見何も問題ないように見えます。
が、「軽躁」は立派な病的状態なので、注意深く見ると、「ふだんの本人」よりも少し違った感じがします。
http://i-concept.hatenablog.jp/entry/2012/04/03/121045

上記サイトに良い話が載っていたので、紹介したい。

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話を被せて横取りしていく人や、常に自分が話していないと気が済まない人
いませんか?

いわゆる我の強い嫌われタイプです。

なぜ、そこまで自分の意見が周囲に通っていないと気が済まないのでしょう。
試しに、黙らせて他人の意見に同意するという訓練をやらせてみたら・・・
できないんでしょうね。

というのも、本人の心の中は常に不安定です。
自分で自分が肯定できない。だから話すこと、周りの同意を取り付けることで辛うじて
自分を保てているのです。
他人に同意できるのは、自分があるからこそ、受け入れることのできる余裕みたいな
もの。
自分のない人間には、ひっくり返っても出来る芸当ではありません。
”即座に話を被せて自分の方へ引き寄せないと、死んでしまう!”くらいの恐怖を
抱えているのです。

しかし自分の心の中が不安定なことは、他者には関係のないことです。
だから、その不安定さに付きあわされるのはコリゴリ と、多くの人が離れていきます。

嫌われる人は、どういう形で表出するにしろ、自分の弱さを他者に責任取って欲しい
と思っている人です。

自分の弱さは自分の責任で治しましょう。

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有人笑著問那位服務小姐:“明明是他不懂,你為什麼不直說呢? 他對你那麼不禮貌,你為什麼對他還那麼客氣? ”

“正因為不懂禮貌,所以不能跟他正面衝突;正因為道理一說就明白,所以用不著大聲! “
小姐說,“沒道理的人,才喜歡用氣勢來壓人。有理的人,和和氣氣地交個朋友有什麼不好 ?“



◇人を恋すると賢明ではあり得ず、賢明で有れば恋する事はできない。-プブリリウス・シルス「格言集」(前一世紀)

賢者になろうと想えば想うほど、そこに葛藤が生まれる。
人間としての煩悩がそこに介在するからである。
「なぜ、この世に生まれたのか?」人は考える。
そこから、過ちを犯していく。
しかし、それを人生と言うべきでは無かろうか?
所詮神にはなれないのである。

◇恋は口を閉ざしていても語りだす-ドイツ-

うちに有る秘めた思い。隠そうとすれば、意識をしてはならぬと、意識すること自体が意識することに繋がる。

◇恋は麻疹のようなものだ。遅くかかればかかるほど、この病気は重くなる-D.W.ジュロルド「機知と所信」(1858年)

年月を重ねてから覚えだす遊びほど、質の悪いものはない。自分の愚かさを認めて、自己を屈する事ができるときのみ、失敗は成功のもとと言えるであろう。

◇恋の最初のため息は分別の最後のため息である-アトワーヌ・ブレ「色っぽい学校」1670年

やはり、理性は恋を支配できないのであろうか?

◇恋は願うことをすべて貪欲に信じる-ラシーヌ「ミトリダート」1673年

恋は盲目。誰しも客観視でき得るのなら、苦い恋は無いはずだ。「信じている」「信じたい」。そこから泥沼にはまっていくのである。

◇恋は架空の物語だが、快楽がそれを真実の歴史にする-ポーマルシェ「フィガロの結婚」1784年

ふ、深すぎる。なんと簡潔に的を得ているのだろうか。

◇戯れに恋はすまじ-ミュッセ、三幕喜劇の題名 1834年

恋はやけどの元。君子危うきに近寄らず。では、ここで問う。恋とは、愛とは危険なものなのか?おそらく憂いを後日に残したくなければ、きっと近寄らないもの。それが恋であろう。
しかし、人生節度が無いところが快楽であって、これをやめれば、何故この世に生を成したのかをまず問わねばなるまい。
自己の責任と偽り、自分の欲求を達するために盲進し、多大なる迷惑をかけることが恋なのであろうか?愛なのであろうか?
おそらくそれが恋愛と言うものの本質なのである。しかし、自分の時は自己の行いを美化し、かつ肯定的に考えるに対し自分以外には舌の根が乾くまで、その否を問うであろう。

と、言うことは解っていながらにして恋や愛を行っていると言うことである。おそろしや。

ここらで、優等生でいることをやめてみたら?
はやく、目標なんてすてて、有るがままの姿にかえれば、いいのではないだろうか?煩悩のなすがままに。。。
しかし、人類はそれに飽いたから、宗教なるルールを作り、人間を戒めたのである。煩悩を捨てよと...。快楽を慎めと...。
いったい、正道とは?む、むずかしい。
私はこう思う。その時に感じたことが正しいと...。

◇人に好かれたいなら自分を忘れよ-オウィディウス「恋愛刺繍」前15年頃

もし、自分を忘れることなく、人と交わることができるのならば、それはもっともよい状態である。

◇男は女の仕掛けた罠にかかるまで女の後を追い回す-イギリス-

だますより、だまされる方がましである。人間「我が想いかなったり」と叫ぶものほど愚かであることはまず間違いない。慢心しているようでは駄目なのである。

◇恋愛で魅力があるのは初めのうちだけだ。だから、人々はしばしばやり直すのを喜ぶ-リーニュ公「随筆集」1811年

人間は神には成り得ない。従って自己を制御する能力が足りない人も多いと言うこと。
しかし、それそのものが人間の本性と言うならば、誰がそれを咎めることができよう。

◇不貞は知らずにいれば何でもないことだ。それを知っても大したことではない。-ラ・フォンテーヌ「コントとヌーヴェル」<魔法の杯>1685年

覆水盆に返らず。却って窮鼠猫をかむの如く、本末転倒になりかねない。事態はその時にもう決しているのだから...。まぁ、あまりにも無関心を装うのもおかしいとは想うのだが、これは難しい。
割り切り方にも多種多様、最終的にはその時の運である。身を任すことが果たしてできるだろうか?磨けばもがくほどはまるのは解っているのに...。

◇恋は時を過ぎ去らせ、時は恋を過ぎ去らす-イタリアー

恋は気ままな生き物である。

◇月と恋は、満ちれば欠ける-ポルトガル-

恋をするのはやめようと言う人はいるが、実際にやめる人はほとんどいない、先が解っているにも関わらず...。

◇恋は女の羞恥心を弱め、男の羞恥心を強める-ジャン・パウル「ティタン」1803年

其れをしなければいけないところが、つらい。そんなことできるのは女々しい輩だけだと思うのだが如何?

◇恋は女に才気をを与え、男から才気を奪う-イタリア-

骨抜きになっていく駄目男がいっぱいいます。でも、そんな駄目男を野放しにする女も悪い。

◇初恋の魅力は、初恋がいつかは終わると言うことを知らないと言うことだ-ディズレーリ「ヘンリエット・テンプル」1837年

人間愚かなり、しかし、其れが恋とか愛とかいうものだ。

◇人は、愛されることを望みながら、愛する相手を怒らせる-プブリウス・シルス「格言集」前一世紀

意識してはいけないと、意識しているから起こる現象

◇高邁な思想は心情から生じ、大いなる愛情は理性から生まれる-ルイ・ド・ポナルド「箴言と考察」

この深き言葉、悟られよ!

◇何事にも耐えられる者は、何事も思い切ってできる-ヴォーヴナルグ「省察と箴言」1746年

責任を取れるのならば、自分の思いのままにできると言うところであろう

◇無文別な者は遊びのつもりで悪事をする-旧約聖書「箴言」10.23前4世紀

こんな奴らと交わってはいけない。朱に交われば赤くなると言うこと。
また、こんな人たちの勇気を、賞賛してはいけない。
匹夫の勇という。
古来、盗賊、山賊、秩序を持たない者達が、支配していた国はない。よくよく考えなければいけない。

◇悪党の橋は渡るな。むしろ急流に身をゆだねる方が良い-トルコ-

渇しても盗泉は呑まず!日々、常にこのような言葉が自分に沸いてでてくれば、判断に迷うことも自ずと少なくなるであろう。
まずは、自己を改革し、気をそちらに向け、我を先ず正し、時を重ねれば、やがて苦もなく行動が伴うようになる。
目指すべきである。結果が分かっているのだから....。

◇凍った蛇を懐であたためてみたまえ。噛みつかれるだろう-イソップ「寓話」<農夫と凍えた蛇>前6世紀

世の中やさしくなれる人はいくらでもいるだろう。憚らずに言わせていただければ優しい人は、大概、自己にも甘い。無論すべての人ではないが
多いと言うことだ。ここで「優しさ」と「あまさ」を混同してはいけない。
「あまさ」とは先見性が無く、聞こえが良いようにその場だけを取り繕っているいわば、藪医者のようなものだ
どうして自分があまいのに、人の世話なんかできるだろう?ただただ耳障りいいだけではないか?
偽善者の方便である。

「やさしさ」とはもっと、大局をみて、事の本質をとらえることである。
此処に山登りをしようとしている、10人がいる。
君は隊長だ。

山の中腹にたどり着こうとしたときに、一人の故障者がでた。
けが人は、とうてい山を登ることを続けることはできないであろう。
また彼の事をかばうばかりにほかの9人は、いっそう危険にさらされる。

故障者は言う「もう二度と登る機会もありません。どうか頂上までいきたいです」
かれは一所懸命嘆願した。

ここであなたは、どんな判断を下すのか?

結論としてはこのけが人を、連れて行くことは断じてできない。
なぜならほかの9人を死地に追いつめることになるからである。
当然、あなたなしでは、この9人は山頂どころか、明日にも迷うだろう。
では、このけが人をみんなでかばって、山頂まで連れて行くか?
それほどまでの危険をしなくてはいけないであろうか・
下山すれば安全な事が解っているのにもかかわらず...。
けが人をこのまま、下山させるために9人の中から、その付き添いを
選ぶも良し、下のキャンプまで引き返して、後を託すも良し。
申し訳ないが、ここでけがをしたこと自体が、もう運命であって
けがで終わっただけも、良かったと思うしかない。むしろ、神の忠告と受け止めるべき。
感情で人の生死をきめることは、できないのである。窮まれば、極まるほど、客観的判断が求められるのである。

ぬるい人たち、甘い人たち、よくよく考えた方が良い。それでも異を唱えるのなら実践されたし。
そこまでの能力に達し得ていない者が、なんで人のことなんかをかばえるのかを、熟慮されよ。

優しさと甘さの違い、解られたであろうか
短気な人は怒れば怒るほど自分に対していらだちを覚える。
往々にして人付き合いが苦手な人に多い。
車の運転中、ちょっとしたときの捨て台詞、人に何かを教えるときに、怒鳴り散らす。

相手に分かってもらいたいということが目的ならば、理論的に優しく話した方が効果的なはず。
声を大きく威圧していっても、だれも聞く耳は持たない。聞いているふりをするだけ。

多くは育った環境によってそのような性格になるらしい。

些細なことで直ぐに慌てふためく、或いは無関心を装い、その実考えるのが面倒で考えていない。
解決策をじっくり考えようとしないから、事が迫ったとき、言動がとげとげしくなり、また言動が混乱する。

すべては余裕のなさから生じること。

他人はそういうところをよく見ている。
「この人とつきあっていけるか」どうかを。






知人の話。

彼は小学校卒業の時、自分を馬鹿にしていた一人を蹴り倒し、喧嘩に勝利した。
もともと少年野球を7年もやっていたので、体力はあった。

中学入学早々、隣学区の中学一年生と、隣学区内の施設で些細なことから喧嘩。3人ぐらいの相手だったのだが、とにかく一番偉そうな奴をぼこぼこに。少しは有名な奴だったらしい。

そうしたことから、自分の学校内でも喧嘩を繰り返した。
「強い」と言われている奴に片っ端から喧嘩をふっかけた。

これで性格がひねくれてなければ、上手く友人付き合いができていたのだろうが、きっと当時は性格がわるかったのだろう。次第に周囲は離れていいった。

2年になると学校中が敵に回った。喧嘩なんて強くても、人の心は腕っ節では掌握できないことを彼は知ったのだった。

来る日も来る日も学校でひとりぼっち。かつての不良仲間はしかとを決め込み、かつての”下”に属する奴らもここぞとばかりに悪口をいう、最悪の日々。

大勢で馬鹿にされた時は、「もうどうなってもいい」という覚悟で、皆を追いかけ回した。
またあるときは一人一人、下校し家にかえる道で待ち伏せして各個撃破を企んだことも。

3年になると、一所懸命抵抗したせいか、少しは無視状態から解放された。
けれども、皆の心の中の警戒心は未だ残っていた。

「済んでしまったことはしょうがない。喧嘩をしすぎたのと、皆に偉そうにしていたことが反感をかったんだ。大切なのは自分を変えること。自分を変えれば人も自分に対して変わるはず」

この信念の元、彼は一所懸命努力した。

高校に入ると、口べただった彼は友人と会うとき、毎回酒を飲んだ。酒を飲んでいると饒舌になれるし、多少のことでは怒らない。小学校、中学校と非常に短気だったのだが、これを抑えることができるようになった。短気、癇癪は人を自分から離れさせる。怒ったところで何一つよくならないことを、彼は長い時間をかけて知ったのだった。

当初は酒を飲んでいなければ出来ない言動も、次第にしらふでも出来るようになった。会話も冗談をいれ衝撃を柔らかくし、横車を押すようなことをやめ、自分の非は認める。

次第に人が自分に集まりだした。

最近、発達障害の大人が急増しているという。
成長する過程で、友達と遊ぶ機会がへり、会話少なく成長した人々だ。

人と会話が出来ず、他と話していても自己主張に終始するだけしか出来ず、些細なことで癇癪を直ぐ起こしたり、どうすることも出来なくなると、赤子のように泣いてみたり。

先述した『彼』は早くに気がつき、自分を立て直した。
いろいろと経験してきた”大人”なら、立て直しに要する時間も短くて済むはずだ。

用事が早く終わったので、銭湯に行った。
銭湯は大好き、特に寒い日の外風呂は最高。

程良く暖まり疲れも取れたところで帰路につく。
いつもの帰り道、本来なら真っ直ぐ行かなくてはならないところを、何ともなしに以前住んでいた街に抜ける為、信号を左折。

自分が歳を取った分、道はすっかり変わっていた。

変わり果てた景色を抜けると、以前のアパートがある交差点にでた。
周りはすっかり変貌しているのだが、アパートは昔のままの外観。

敷地内全て駐車場だったのが、新しいアパートが建っている。そのお陰で、以前のアパートは少し小さくかわいそうに見えた。

「さてと帰るか」

住んでいた当時、仕事場に通った道もがらりと変わった。以前の面影はまったくない。

近くに恩師のお墓があるのを思い出した。

「偶には寄ってみよう」

コンビニで買い物をし、夜中の墓地に進入。
歳を取ったせいか、怖さは感じられない。やがていく世界。

暗かったので少々探したが、お墓が見つかった。挨拶をする。

帰宅後、朝4時近く、“非通知設定”の電話が。誰?

まさかね。

相手が話したくて話したくてしょうがない話題。
自分だけが知っているとちょっぴり自慢したい話。

誰だってこんなとき有ります。
話したいのです。自分の事を。

なのに、「あっそれなら僕なんか」「私の場合は……」なんて、話ぶった切ってしまう人います。
聞いてあげればいいのに。
話す人はまとまりのある話し方をする必要があるし、聞く人は「あっそれなら聞いたことがある。あれでしょ!」なんて、アシストしてあげる必要がある。

当たり前の話だけれど、判を押したように同じパターンの相づち打っているだけでは自然じゃない。テキトーな相づち「へぇー」「ふーん」「あっそうなんだ」なんていうのの繰り返しは最悪。偶には突っ込みをいれ、偶には表情を変え、話者の話を盛り上げる。
わざと興味なさそうにそっぽを向くなんていうのも「オイ、キイテイルノカ!」なんて突っ込み入れられるから、これも盛り上がる。

とにかく人と会話しているときには、話し手聞き手役割分担をきちんとやる。
誰が話そうが、すべて自分の話に持って行く人は人から聞いてもらえません。
「話したいから話しているだけ」「聞かなくたって別に良い」なんて、人の話をボキボキおりながら我が道を行く人は、そのうちにまわりに人がいなくなります。

「知って知らず」の感覚で話すぐらいがちょうど良い。


『三つ心、六つ躾、九つ言葉、十二文、十五理で末決まる』

意味はいろいろなサイトに掲載されているので、そちらを読んでください。

ここで言いたいのは、『三つ子の魂百まで』即ち、幼少期青年初期に受けた影響が、大人になっても色濃く残る、その人の行動原理を支配すると言うこと。

例えば小学校、中学校で内気だったものが、会社に入ってからも内気でいたり、その逆、内気に見せない為の行動をとったりするということ。逆の行動も言ってみれば影響をうけて意識しているからであって、客観的にみてバランスのとれている行動には映らない。無理しているよう見えたり、自然でなくみえるわけだ。

これを大人になって「もう過ぎた事で、いまさら変えられないのなら、考えてもしょうがない」と取るのではなく、原因が分かっているのなら、状況、場所、相手に合わせて出来るだけ自然にできる訓練をすれば、そのうちに自分自身も自然にその行動が取れるようになるのではないだろうか。

職場であれば部下に、子供がいれば子に、指導者であれば生徒に、友人恋人がいれば相手にきっとどこかで無理強いをしているはずである。「俺はこうやって来た」「私ができてなぜ君にできない、努力が足りない」云々。

でもそんな人は往々にして自分には甘い。人が変わらないと怒っているのに、自分を変えようとしない。自分は不得手なことを努力して向上しようとはせず、人には強要する。これはおかしい。
人には得手不得手は必ずある。ここで大切なのは克服しようとしているか、していないかの姿勢だ。
自分は姿勢すら見せず、人には姿勢云々ではなく結果をみせろという。

自分の幼少期青年初期に受けた行動原理が、どのように自分に作用しているのかを考え、自分にも厳しさを課せられれば、幼少期の影響はだんだんと薄くなるはずである。
それが人間としての円熟味ではないだろうか。
人間が本当に悪くなると、人を傷つけて喜ぶこと以外に興味を持たなくなる。
「格言と反省」

能あるものは、そっと黙っていよ。
そっとしておいてもおのずから現れてくる。
どんなに装ってみても、結局は人間の問題だ。
「温順なクセーニエン」第三集

もし賢い人が間違いをしないとしたら、愚か者は絶望するしかないだろう。
「格言と反省」

内面のものを熱望するものはすでに偉大で富んでいる。
「エビメニデスの目覚め」

仮説は、建築する前に設けられ、建物ができあがると取り払われる足場である。
足場は作業する人になくてはならない。ただ作業する人は足場を建物だと思ってはならない。
「格言と反省」

もっとも不自然なものはまた自然である。至る処に自然をみない者は、どこにも自然を正しく見ない。
「自然に関する断片」1781,2年






イギリス

ト―マス・フラー 「格言集」(1732)

いちばん高い声で鳴くめんどりが、いちばん卵を産むめんどりではない。


以下はこちらのサイトからの引用です。

http://www.geocities.jp/yanbaru5555/jikoai.htm

 (注:以下の内容は、筆者が臨床から得た実感を記述したもので、学問的な分類とは必ずしも一致しないことをご理解のうえでお読みください)


はじめに.自己愛性人格障害は、幼少期の非常に辛い支配やネグレクトによって形成された、「環境によって順調に成長することを許されなかった」人の障害であり、ほとんどのケースで本人には選択の余地が無く、本人はその意味では被害者であり、本人が悪いのではないと考えるべきである。また非常に不幸な幼少期の環境を補うような「育て直し」が必要で、その意味では「徹底的にサポートして抱える」ことで回復が可能である。まず基本的にこの点を家族や治療に当たるスタッフ全員が認識することが必要である。


1.自己愛性人格障害は悪人とは違う。

 自己愛性人格障害の人は表面上の行動としてはある意味で正直でだまされやすく、自分を有利にするために冷静な計算をして巧妙なウソをつき、罪を逃れたりするいわゆる「詐病」や「犯罪者」とは根本的に異なる。


2.自己愛性人格障害の人は生きるのに非常に苦労をする。

 自分の精神的な安定に「周囲の他者の言葉や行動が自分を否定しない」ということを必要とするため、普通に生活することが非常に困難で、日々の生活に他の人には想像も出来ないようなエネルギーを必要とする。その結果引きこもりになることも多い。


3.表面的な言葉にこだわり、話が逸れてしまうことが多い。

 自分に不利なことを言われた場合、その言葉を目の前から打ち消さなければ非常に不安になるため、表面的な正当化を続けざるを得ず、話がかみ合わない。相手から見ると多くの場合、「不利なことを言われると毎回逆に自分が被害者であるような話を持ち出して論点がずれる」というパターンになる。


4.表面上の行動としては人の(傷つくなどの)感情を理解できないように見える。

 「自分が存在してよいか否か」といった根本的な不安の中で生きるために、自他の感情などを客観的に認識する精神的なゆとりやまたそれを可能にする成長発達の機会が無く、周囲の人との関わりの中で、表面的な言葉や目で見て分かるような行動だけで相手と実際関わる(お世辞と分かってもそれにすがりつくしかない)ため、表面とは違う奥底の本質や「気持ち」や「心」などの自覚や理解とそれに基づいた行動が困難で、その結果自分の言動の結果相手が「傷つく」という発想も無いかのように見える。

 また現実の関わりはほとんど自分を正当化することに汲々とすることを余儀なくされているが、根本的にはそれが空しいことは感じている。


5.簡単にだまされる。

 自己愛性人格障害の人は第三者的には人の行動の意図などは良く察知できるが、こと自分に向けられる場合に、表面的にでもお世辞でも自分をサポートする言葉にしがみつかざるを得ないため、簡単にだまされる。例えば単純なウソでも表面的におだてられればすぐに相手の言うなりになってしまう。


6.誠意や愛情を表すために物を与える。

 相手が自分から離れて行く状況では、(それ以外に関わる方法を学習する機会が無かったために)、とたんにサービスに転じ、表面的におだてたり、特に金品を与える行動に出ることが多い。そのことで逆に周囲を傷つけることも少なくない。


7.現実的なモノや自分の生活などに対する執着が希薄である。

 自分を高く評価されているかどうかのみが重要で、周囲の現実、モノや自分の生活や生命などへの執着は少なく、「主義や観念のために生活や生命を犠牲にする」ことが比較的簡単に出来る。


8.注目を集めるために、時に奇妙な行動をすることがある。

 評価を求めるため、現実的な立場が悪化してそれまでの評価が得られなくなる状況では、時には奇妙な行動に出て注目を集めようとする。その行動がかえって奇妙と見なされることは想像できない。自分自身で(皮相的にでも)評価されることであると感じれば何でもやってしまう。


9.自分自身の問題点について反省したり考え続けることが難しい。

 自分に不利なことを思い浮かべるだけでも直ちに打ち消さないと極度の不安に襲われるので、自分自身の改善するべき問題について考え続けることが難しい。そういう意味で自分を変えようと思い立つことも非常に困難で、治療につながりにくい。


10.平気で自慢をする。人の高い評価は当たり前だと認識する。

 当たり前のように自慢をすることが多い。自慢や、周囲の高い評価が欲しいことについて、隠そうとしない。それを言ってしまうと逆に自己顕示的で嫌われるかもしれないという感覚が無い。(ADHDの場合は自慢しようとは思っていないが状況が分からずにこうなる。自己愛性人格障害の人は自慢が当たり前だと思っているように私は感じる)


11.日課の時間が決まっていたり、順序などへのこだわりがある。

 日課の時間が決まっていることが多くみられ、また日課の順序や予定の急な変更は嫌う。一般に保守的な面がある。


12.愛着を持つ相手には、一方的に服従になることがある。

 特定の相手には「愛着」の対人感情を持つことがあり、その相手には通常の行動パターンと異なり絶対服従のような形になることが多い。


13.生きることの困難さにより、ACとなったり、そううつ病となったりする。

 自分に不利な評価も存在する当たり前の現実の中で生きることは困難であるため、引きこもりになることも多い。そうでないケースも、現実を直視しなくてもいい認知障害(ACや躁うつ病など)を合併することもある。
Truly it is an evil to be full of faults; but it is a still greater evil to be full of them, and to be unwilling to recognize them.

Pascal

Whoever is aware of his own failing will not find fault with the failings of other men.

Sa'di

  
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