忍者ブログ
ブログ内の写真はクリックすると拡大表示されますので、是非ご覧になってください。 写真サイトは こちら http://nisrockjp.exblog.jp/
[1] [2] [3] [4]
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

カテゴリーが適当。

まっいっか。

恋愛で魅力があるのは初めのうちだけだ。
だから、人々はしばしばやり直すのを喜ぶ-リーニュ公「随筆集」1811年

人間は神には成り得ない。従って自己を制御する能力が足りない人も多いと言うこと。
しかし、それそのものが人間の本性と言うならば、誰がそれを咎めることができよう。


hongseniangzijun.jpg
PR
P1090808ct.jpg
はは、ちょっとやってみたかった。パクリです。
本人気がつくかどうか…

デモ、マー、シカシ、こんな腕時計持っている人いるのかな??

chuanzhongさんから教えて頂いた、book・off・online”、さいあくー(`_´)
「アマゾンでよく古本購入しています」っていったら、chuanzhongさん、
「アマゾンもいいけれど、送料が高いじゃないですかー!book・off・onlineなら
1,500円以上で送料無料ですよ」だって。

で、サイト覗いたら、予想通り15冊も本買っちゃった。

こんな””暇つぶし”繰り返していると、間違いなく本の置き場がなくなる。

店で売るか…




P1090418.JPG
  中年のおばさんも、またあおばあさんも、なぜかおしゃべりな人がいて、いろいろなときにあまり関係のなさそうな人に話しかけているように見える。
  スーパーで揚げ物のおかずを買っていたら、
「あんた、それおいしくないよ。どうやってたべるの?」
と、隣にいたおばさんに突然言われて、親切なのか余計なお世話なのかよくわからない。
「カツ丼にしようかと思って……」
などと気弱に答えて
「ふーん。ならいいか」
と、解放してもらうというようなことがよくある。
  話がはじまるというのには、人も関係があるのだが、状況にもよる。
  新幹線の中では、通勤電車の中よりも、話が始まりやすい。国内線より国際線のほうが、会話をしやすい。長い時間や、非日常的な時間は、おしゃべりを生み出しやすい。滅多に日本人のいない国にいると、日本人であると言うそれだけの理由で話をしたくなったりする。日本語で自由に話すことに飢えている。
  危機的状況でも、会話は自然発生する。停電で閉じ込められたエレベータの中、急停止した電車の中、夕立で降り込められた駅の出口、火事や交通事故の野次馬たち。
  商売によっては、そういう雑談を含めたサービスというのがある。タクシーの運転手とは会話を楽しむというひとがいる。床屋では、初めての客にアンケートを取るところがあるのだが、その中の質問項目に、好みの話題は何ですか、というのがあった。何だかサービスのしすぎのような気がする。看護師というのは、おしゃべりの技術が必要な仕事だろう。病人たちの何気ない話しかけに対して、ある程度真摯に聞き届け、ある程度はいい加減に聞き流す。また適切な問いかけをはさむ。話題の選択やことばづかいの適切さも必要だろう。

********************
  接客商売の方々は、太字で書かれている部分が身についている。誰に教えられたわけでもなく、経験上習慣化しているのであろう。
  事務職、技術職等、普段未知の人と接する機会が少ない人は、不得手な方が多い。真摯に聞くことが出来ても、相手の考え感じ方も関係なく、自分自身が考える話題の最終結論まで持って行こうとしてしまう。当然、気まずい雰囲気になる。
  言いたいことを言うのは結構な事だが、相手の考え方、立ち位置も尊重しなければいけない。
相手の話をまず聞き、理解し、適切な質問をはさみ、冗談を交えながら、徐々に自分の意見感じ方を相手に浸透させていく。もちろん相手の意見を尊重し且つ考え方を理解しながらだ。自分の意見だけのごり押しは許されない。さらに付け加えれば、声音、表情、口調を変化させ、相手を受け入れながら、自分も相手に受け入れてもらうようにする。自分の意見を言いたいのなら、その程度の手順は踏まなければならない。
  逆説的に言えば、それだけの事が理解できず、出来ないやらないならば、無闇矢鱈に人に話しかけ、自分自身の主義主張を言うなということ。
 
P1090727.JPG
第二章 気持ちの良い日本語
合意の原則―あいまいさの源泉

  合意の原則というのがある。相手とおなじコトについては強調する。共感を強める。また、相手と異なるコトについては目立たぬようにする、というのだ。要するに、相手と同じように考え、同じように感じているというようにする。
  相手が嬉しがっていれば、こちらも嬉しいふりをする。相手が悲しそうであれば、同情を示して一緒に悲しがる。自分が相手と同じ気持ちであることを示す。
  取引先の社長が
「雨が降って嫌な天気だね」
と言ったら
「はっきりしない天気が続きますねえ」と
一緒に嘆いたほうがいい。
「今度ゴルフでも一緒にしたいね」
と言うのなら、
「私も是非そうしたいです」
と答えるのが礼儀だし、相手に対して丁寧であろう。
しかし、どうしても一致しない考えを持っているのなら、目立たないようにする。
「あいにくゴルフは苦手で、ご迷惑をおかけしそうですし…」
とか
「いいですねえ。社長はマージャンなんかもなさいますか」
とさりげなく話題を変えていく。
ゴルフに誘われて、
「ゴルフは環境破壊の根源であり、森林伐採、農薬散布には大反対で……」
などと、相手との意見の違いを際立たせるようなことを言ってはいけない。

社交の場では、合意形成のゴールを目指して努力する。
********************
カウンター越しに聞いていると、このような会話の仕方に慣れていない人が結構多い。
なにも「自分の言いたいことをいうな!」とは言わないが、冗談でも交えて話すべきである。
そう、その冗談も”自分だけが面白い物”ではなく、相手に受け入れられ且つ場を和ます冗談が必要。

そのような話術もなく、隣席の人々に話しかけ、相手の話など聞きもせずに、自分の主義主張自慢話にする人々…
迷惑この上ない。
P1090563.JPG

角川書店“角川ONEテーマ21”から
金田一秀穂著『新しい日本語の予習法』という本が出ている。
2003年4月発売、随分と前のものだが今読んでも非常に面白い。
その中から興味深い話を少しずつ紹介したい。

********************
「乱れ」より「変化」

ら抜き言葉と言うのが問題になって久しい。「食べられる」と言うべきところを「食べれる」と言ってしまう。
「見れる」や「来れる」もら抜き言葉である。これについてはいろいろ議論があるが、私はら抜きでも構わないと思う。ら抜き言葉は大正時代から現れていて、今に始まったことではない。自然の趨勢である。ら抜きを意識するあまり「帰る」の可能形を「帰られる」にし、「行く」を「行けられる」にしてしまうほうが問題であろう。
「すごい暑い」という言い方は、本当は「すごく暑い」でなければならなかった。ちょっと小難しい言い方をすると、「すごい」は形容詞であり、用言を修飾するときには(動詞や形容詞の前にくるときには)、「すごく」という連用形にしなければならないという決まりがある。ただ「すごい~」という副詞が新しくできたのだと考えれば、「すごい暑い」は文法的に正しいということになる。言葉が乱れているというより、ことばが変化していると考えるほうがいいのではなかろうか。

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

  私たちが普通の女ことばだと思っているものは、実は、時代と共に変化している流行語であると考えられる。
今オバンくさいと思われていることばは、40年前には、時代の先端を行く女性たちの流行語だった。
  かつてビートルズが来日したときのニュース映画を見たことがあるのだが、彼らの泊まっているホテルに集まったミーハーの若い女性たちへのインタビューが興味深かった。
「ビートルズの誰が好きですか」
という、アナウンサーの問いに、
「やっぱり、ポールかしら」
と答える、いわゆる女ことばを使っている。
「何ていうのかしら。とってもすてきだわ」と言う。
当時あっては、とんでもない不良娘だったはずなのだが、今から聞くと、大変上品なおばさんのことばに聞こえてしまったのが面白かった。
  おんなことばは変化している。1966年当時には普通に若い娘さんが使っていたことばが、今も使われているかは無視されて、典型的な女性のことばとして考えられている。今は「好きヨネ」ぐらいで、ほかは若い女性にはあまり使われなくなってしまったことばであるようだ。

********************
  ことばは年々変化している。生き続けているのだ。
  新製品、新技術、新概念が生まれれば名詞はどんどん増えていくだろうし、よく使われる長い単語は、日に日に短縮されるはず。単語が持つ意味だって、時代時代によって違う。
  「言葉づかいがおかしい!」なんて目くじらたてて怒る人を偶に見かけるが、その人だって、当人の親の世代の言葉づかいとは違うはず。”変化”しているのである。寛容に受け止めることができるのは、その人の教養、素養に依るところが大きいのでは。
 
 
P1090189web.jpg

「自分の意見ははっきり言った方がいい!」

そりゃそうさ、言いたいことは言わなきゃ
相手にわからん。特に日本人は
これが出来ないと言われている。
曰く「何を考えているか分からん」
まして顔でも作って
同調ばかりしてたら相手には気味悪がられる。
が、最近、全く逆に
傍若無人な話し方をする人もいるようだ。

私は思う。

言いたいことを言う事。
場の雰囲気を読み、適切な回答をすること。
どちらも大切なことだと。

「和も重んじて、己も大切にする」

世の中に数々の「しゃべり方」なる本が散乱し
みな上辺だけの知識で世の中を渡ろうとする。

"自分の意見をきちんと言いながら協調をも大切にする"
これが出来なければ私は「社会人」とは思えない。
ただ歳だけ重ねた「子ども」だと思うのである。

他人に自分の意見を言うときは
まず相手の意見をきちんと聞く。
相手の考え方、思考の経路などが分かって
から少しづつ自分の言いたいことを言っていく。

大体自分の意見を言うという時は
自分の意見を通したい、理解してもらいたいから
言うのである。

「相手がなんと言おうと関係ない」といった
場合も考えられるが大抵の場合は
相手に受け入れてもらわなければいけない時では
ないだろうか?

ならば当然相手に歩み寄るような発言もしなきゃいけないし
向こうの土俵にだって登ってやらなきゃいけないのでは?

まぁしかし"同じ土俵"に登るって事、これは大変である。
自分に実力、自信がなかったら
生きて帰ってこられないのだから。

つまりは、その程度の力は無ければ言いたいことを
軽々しく口にしてはダメだって事。

至らないのに言うこと、これを我が儘という。

相手の得意分野に行って、相手にわかりやすい
戦い方して「うまく引き分ける」。
若しくは僅差で負ける。

けっして辱めるまで言ってはいけない。

窮鼠猫をかむの諺もあるように。

そのようにして事を行えば、だんだんあなたの
考え方にも理解を示してくれるようになり
聞く耳を持つようになる。

そこで初めて自分の考え方とか
自分のやり方とかを示していく。

営業やってる人達がよく言うでしょ
「まずは自分を売り込め」って。

まずは自分を信頼してもらうこと。

相手の意見を受け入れながら
だんだんと自分を信頼してもらい
下地が出来たところで徐々に
自分の考え方、言いたいこと
やり方などを伝えていく。

これが出来るようになって初めて
世の中で活躍出来るようになる。
これが出来ないなら圧倒的な力を持つしかない。
知識、芸、財力等。

もっとも言っても話しても分からん「猿」ばかりの
世の中になったら戦闘能力のほうが
大切かもしれないけど...

とにかくも簡単に自分の実力出す程度では
本当の実力者には見透かされてしまうと言うことです。

[『善く行く者は轍跡無し』覚えておいていただきたい。
10年ぐらい前に
知人に宛てて書いたメールの一部です。

私はいつも、自分に正直でいようと
思っています。ただその正直にも
限度や表現の仕方があるわけで...

私、いつも言っていますよね
同じことを言っても怒られる人と
怒られない人がいるって...

得な人間になった方が
絶対に楽なんですよ
「あーあいつじゃしょうがねーな」
なんて言われるような人の方が。

信じられないかもしれませんが
私は周囲と同じことを言っても、
必ず自分だけ怒られる
そんな性格の人間でした。

だからいつも友達のことをうらやましがっていました。
「なんで、あいつが言うと冗談で済むのだろう」って

ある時わかったんですよ。
自分のしゃべっている表情や、声音
身振り、手振りなど、表現の仕方が
明らかに友達と違うことが。

振り返ってみると
きっとその時分、中学生の時は
暗い感じの子供だったのだろうと思います。
暗いと言うよりは表現力が乏しい
といったほうがいいかも。

だから高校に行った時は
一所懸命、性格を変えようとしました。
その人の印象なんてものは
他人が決めているわけではなく
自らがそう見えるようにしている
わけだから、見せ方を変えれば良いと
想ったのです。

現在、自分で言うのもなんですが
そんな性格ではなくなったと感じています。

要するに換えようと思えば変えられる。
生まれつきの性格は変えられないなんて
絶対にあり得ない。
百歩譲っても行動は変えられるはず。

自分で「表現の限界」を決めてしまうから
先に進めなくなる。僕はそう考えます。

実は「限界」とは自分自身で決めている事。
考え方ひとつで、どうにでもなるものです。

もしやり方が解らなければ
自分が観ていて、参考になるような人を
真似てみたらどうでしょう?

私は若いとき、飲みに行った先にいる
話し上手の人を良く真似していました。

店のママ、話の上手な常連さん。
そこのお店の社長さん。

魅力ある人のしゃべり方、表現の仕方は
実に参考になります。

彼等に共通しているのは
思いやりを以て相手に話しているということ、
接しているということ。

自慢話に終始せず且つ毒を含む陰口を言わず
嫌みのないさらっとした話をします。

また、この手の人達は聞き上手。
どんな話でも出しゃばらずに聴けます。

「まずは始める」
真似てみてください。
最初は、何か変な気がしますが
継続は力なり。やがて「自分らしい」
表現の仕方が見つかるはずです。
相手の事を考えた表現のしかたが。

兎に角始める。そして続ける。決してあきらめない。
強い精神力というのは、そのような時に使うものであって
自分の我が儘を維持するためのものでは
ないのです。

すると周囲のあなたを見る眼が変化し
自然とあなたも穏やで明るい
性格にになっていくという
好循環が生まれます。

machiawawse.jpg

以前、仕事でお客様の事務所へ
伺った時、壁に掲げられた文章が
とても良かったので書き留めてきた。

出来ない理由を探さずに
どうしたら出来るかを考えよう。

苦しいことが多いのは
自分に甘さがあるから…

悲しいことが多いのは
自分のことしか分からないから…

辛いことが多いのは
感謝を知らないから…

心配が多いのは
今を懸命に生きていないから…

行き詰まりが多いのは
自分が裸になれないから…


どうしなければを考えなければいけない時
大多数の人々は、愚痴めいた問題点を並べ、
「だからどうすべきか」という策がありません。

また自分自身で問題点が解っているにも関わらず
捨て置いている人もたくさんいます。

「出来ない」「やらない」「努力しない」のに
自分に都合の良いように物事を解釈し、偉そうなことを言う。

これでは人間的に成長するわけがありません。

心配が多いのは
今を懸命に生きていないから…


備えよ常に の精神でいれば
他に対し寛大になり、言動に余裕が生まれます。
neko.jpg


今から10年前の日記より

2000/5/20

日経新聞日曜日の朝刊にこんな記事が

しつけのナゾ ③

幼少期に、心を穏やかに育てることが、とても大切だ。心は脳の活動なので、脳をうまく育てることが必要となる。
ここで忘れてはならないのは、脳は肝臓や心臓と同じような「臓器」と言うことである。
臓器が健全に育つには、適切な栄養が欠かせない。とくに幼少期の頃の栄養は、脳の発育
従って知能に代表される心の発育にとても重要なのである。

幼少期に栄養不良で育った子供と、ふつうの栄養をとって育った子供で、脳内のデオキシリボ核酸(DNA)の量を比較したデータがある。
DNAは遺伝子の本体で、この量が多ければ遺伝子も多く発育し、脳内での神経回路は豊かに育つ。
このデータでは、栄養不良で育つと脳内DNAが非常に不足することが示された。ふつうの栄養状態に比べ、DNA量が半分しかない子供もいたのである。
これは栄養不良では、脳の神経回路がうまく育たないことを示す代表的なデータである。

神経回路があまり育たなくても心の発育に関係ないとすれば、これは大したものではない。しかし、実際には大きく影響する。
栄養不良の子供の知能指数(IQ)を測った研究があり、驚くべきことに、そのすべてでIQは100以下だったのである。

知能指数は普通、100を頂点とした分布を示す。実際、普通の栄養で育った子供で調べると、110とか120などの値を示す。
IQにもいろいろあるが特に重要なのは「一般的IQ」である。このIQは社会的成功と密接に関係している。一般的IQが低いほど
犯罪などの社会的リスクを強く負うようになってしまう。

IQが低くても構わないという意見もあるかもしれない。多少低くても、きちんとした人間になればよいのでは、という意見に私も賛成である。
ところが、栄養不良で育った場合、すべてが100以下なのである。これはあなどれないデータである。

幼児期での栄養不良は、神経回路の未発達のみならず、成人してからの社会的成功にまで影響をおよぼしてしまう可能性があるわけだ。
栄養不良はおろそかにできないのだ。

栄養不良なんて特殊な状況下の話で、現代日本には関係ないのではないか、という声も聞こえてきそうだ。だが、ここでいう栄養不良とは
「栄養失調」とは違う。脳の発育にとって必要な栄養素を適切に取っていない、というのが栄養不良である。食事に偏りがあるだけで
飽食日本でも栄養不良になりかねない。

では、どんなものを食べればよいのか。

ここで簡単に紹介すると「まごはやさしい」が基本である。
つまり、ま=豆類、ご=ごま類、は=ワカメなどの海草類、や=野菜、さ=魚、し=椎茸などのキノコ類、そしてい=芋類、である。

これらの食べ物をバランスよく取ることで、脳にとって必要な栄養を過不足なく得られる。脳内DNAが不足することもないし、神経回路もきちんと育つ。

栄養というのはつい軽視しがちである。しかし、とくに幼少期の頃に十分に注意しないと、脳はうまく発育せず、ひいては
「社会的リスク」を負うまでになりかねないことを強調しておきたい。(北海道大学教授沢口俊之) 敬称略

こんな記事である。

前々から言っていたが、車だって燃料によって走り方が変わるし、ものだってどんな素材でできているかで性質がちがってくるものである。
食べた物が血となり肉となるのなら、人間だって当然、食べるものによって体の構造が違ってきても不思議ではない。

よく好き嫌いをする人がいるが、食わず嫌いが大半である。
普通ににんじん食べて死んだ人なんてほぼないはず。毒性があるのなら
そもそも食用とはされていないのではないだろうか。
(一部アレルギー性のものは除いて)
また親となる人たちが好き嫌いをいうと、その家庭の食卓に
嫌われたものがのらなくなるという弊害が起きやすい。結果、子に伝染しやすい。

最近バイトの子たちを観ていて思うのだ、だいたいの子は、食がかなり細い。
食べると言うことは「生命力」にかなり近い行為である
と考えると最近の人たちの体の弱いのもうなずけるような気がする。
そして、その体力のなさからくる「精神的な弱さ」。
これが一番よくないと思うのだが、かれらは自分の限界点をすぐ作ってしまう。
またそれを「人それぞれの個性」といってしまう、今の時代そのものの甘さ。

個々の特性を伸ばすなんて言ってはいるが、それは
一つのことをがんばって及第点まで上り詰めた人が行うことであって
努力もしていない人たちが言うことではない。
ただの”言い訳”でありただの”わがまま”である。
またそのような論調がこの時代にはびこる背景には
いろいろと原因があると思われるが一つの要因として
”無責任”が挙げられるのではないだろうか。

表面的には個性を伸ばしているようではあるが
裏を返せば自分という人間に対しての責任感の欠如。
自分を厳しくできない甘さ。
また他人に指導、忠告するときに、
果たして自分の言っていることが正しいのか、
また自分の行った指導に対する責任放棄をしたいがために、
つい耳障りのよいことを言ってしまうという責任感の欠如。

要するに逃げているのです。

もう少し努力し、もう少し自分に厳しくし、
もう少し負けん気が強いと、きっと本当の意味での
人に対する優しさが生まれる。自分も経験してきているからこそ
思いやれる。上辺だけ成長してしまった
無責任な人間はいつかきっと地金がでる。

その地金を鍛えることこそ人間教育だと思う。
知識という装いは地金がしっかりいて
初めて輝きを帯びる。

私が幼かった頃
親に限らず近所のおじさんやおばさん、学校の先生等
皆、年上の人達は口うるさかった。

何をするにでもとやかく言う。
今考えれば皆それぞれ親切心からの言葉であって
口喧しく言った以上、誰しもが責任を持っていたはずである。

現代、他人の子など叱ることは難しい。
一っ間違えれば逆恨みされる恐れさえある。

そのように、人にとやかく
言われず、躾られずに
育った人々がやがて
親になる。
叱り方、躾方など解るはずがない。
自分がそのように育っていないのだから。
 
良いところを伸ばすためには
個人を尊重しなんでも好きにやらせる事も
確かに大切だ。
 
しかし、その技術や長所は基本的な倫理観や
道徳観がそなわって初めて功を奏すわけで
あって幼い頃から自由奔放という言葉をかりた
『無責任。ほったらかし状態』で
育った子供達に辛いときの忍耐力や
壁をを乗り越える力、自己を抑制し周囲の人々と
協調する気持ちが宿るのであろうか?
 
けじめの伴わない才能を開花させたとしても
人間性を問われてしまえば、技術長所は
無用の長物、人物とはなり得ない。

いたずらに時を過ごすことしかできず
質の悪い人として未成熟な"甘ちゃん"ができあがるだけ。
 
核家族化がすすみ、一人っ子が増え、近所付き合いは減り、
一人で過ごす時間が多くなった子供達が
周囲の人々との意思疎通の図り方を覚える事は難しい。
また躾られずに育った親たちが
次世代に躾をできる可能性も極めて低い。

いつでも電源を入れればスタート画面になり
やり直したいときはリセットボタンを押す。
止めることだって指一本ですむ。
子供達はゲームをやるときと同じように、人に対して、社会にたいして
自己中心的な考え、わがままになる。
 
自分自身を制御できない子供達は、自らを高める努力はしなくなり
自らの限界を定め「私は私、僕は僕」の立場をとる。

本来、人間形成された人間が、その個性、感性を強調するときに使う
その台詞が向上心をなくし傍若無人な人間の逃げ口上になる。
 
自分を肯定してくれる人を常に探し
傷をなめ合う子犬のように群れる。
 
こんな人々が先々国家を支える訳がなかろう。

「過ちては則ち改むるに憚ること勿れ」

教育方法を改めるべき。

物事の善悪、進むべき採るべき道を示し
人間にとってなにが一番大切なのかを躾る。
人としての土台をしっかりと作る。
何事も基礎が大事。

知識という上物などは
土台がしっかりしていれば
容易く積み重ねることができる。

人道、道徳、倫理を備えた上に
知識というものを纏った
国民をつくりあげれば
景気、経済、雇用、治安等
様々な問題は問題でなくなる。

たった一つを解決すれば済む。

歴史を知るものならば
教育、躾がもっとも重要で且つ効果的だと
いうことを知っている。

まずは躾という国字の意味を教えたらどうだろうか。

気の利いた「冗談」を交えながら話を進めますと
円滑に話がまとまります。これは「怒る」時だろうが
「諭す」時だろうが、はたまた「議論」するときにても
変わりません。
 
要は「冗談」を巧みに使いこなすことができると
人と人との接点たる「会話」の衝撃を和らげる効果が
「笑い」の中には含まれています。
万事、西洋へならえは、好きではありませんが
気の利いた「ジョーク」を言えない人間は
アメリカ社会では出世はおろか、人間的に認められないそうです。
 
「冗談」を駆使して、自分の言いたいことを的確かつ、
素直に相手に伝えると言うこと。言い換えれば相手への
衝撃を和らげながら確実に伝えるという技術を習得する
と、先ほどの話を逆手にとれば
社会的に出世して、「人間」であるということ。
 
しかし、なかなかそうは言っても、
百戦錬磨常勝している時期には、
「冗談」を使わずして
徹底的に説き伏せる
いわゆる、論破する形を
人は好む傾向にあります。
 
「相手の気持ちはなんのその」です。
 
このような状態の人物は途中過ちに気づいても、
いつしか目標が「気持ちを伝える」事ではなく
「論破、いい勝つ」になり易く、軌道修正はなかなか
できません。
結局、嘘をつくために嘘といった、
理屈か屁理屈だか解らない、勢いに
任せただけの「口撃」にしかならないのです。
 
こんな時に言葉の矛先を鈍らせてくれるのが
前述した「冗談」なのです。
これを交えながら、相手に自分の気持ちを伝える。
この技術が備われば、普段から自分が他人に対して
思っていることを「サラリ」と言えることが可能となるのです。
 
人に言い勝つ事、それはその人に「勝った」事にはならないのです。
言い負かす事ばかりに明け暮れれば、周りの人間が離れていくのは、明らかです。
その言葉の中には、相手の気持ちが存在する場所がないのですから。。
 
人に自分の気持ちを伝えること、包み隠さず言えること
それは適切な「冗談」を持ち得ないと、不可能に近いことなのです。
 
それらが自然にできるようになると
人望を集め論破などせずとも
人々は聞く耳を持ち、事がうまく進みます。


『桃李言わざれども下自ずから蹊を成す』です。

世の中で一番大切なもの。それは信用。
「信用」が無ければ信頼関係など築ける
訳が無く「不信感」を抱かせる大きな原因になる。

Aと面と向かった時には
耳障りの良い言葉を並べ
Aに対しおべんちゃらを言いながら
Bを貶す。
Bと話しているときは
Aの悪口を言いながら
またBに対し世辞を言う。

節操がない。

二枚も三枚もあるその「舌」で
考えられるすべての世辞を並べ立て
「思い通りに事が運んでいる」と錯覚する。

だが、所詮そんな生き方をしている人物を
評価し、とりまく人間は、同等の水準
つまり信頼関係はできない。
いつかきっと「欺く」時がくる。

信用を得るということが
如何に難しく困難な事かを
理解しているものは
そんな軽々しい
人々の側には居着かない。

「舌先三寸」では世の中
渡っていけない。

特に不誠実というわけではないのに、人から親しくつきあってもらえない人がいる。
「悪い人じゃないことはわかっているんだけど、何となく誘う気になれない」などと言われている人もいる。
なぜ、そうなのかを考えて行く課程で、いろいろな人の顔が浮かんでくる。
  話をしていると、いつの間にか自分や身内の自慢になってしまう人。
  ものの見方が悲観的で、その人を一緒にいると、だんだん気が滅入ってくるという人。
  話題がいつの間にか人の悪口になっていて、その人の話にうなずくと、あとからこちらが
その悪口を言ったように話す人。
  こちらの話に、「それなら私もできる」とか、「それと同じものを私も持っている」というように
子供っぽくて競争心が強い人。

  安請け合いばっかりして、結果をいつもはぐらかす人。
飲み会の帰りに二人だけになりたいの人がいることにも気づかないで
どこまでもついてくるような、鈍感な人。まだまだたくさんの人たちが思い浮かぶ・・・。

なんの本だったけ?
yokosuka.jpg

とにかく落ち着かない。

いっているそばから話がぶれる。

よく言えば臨機応変。
普通に言えば優柔不断。

とにかくこんな人たちが多すぎる。
前言撤回なんて年がら年中。

そもそも話がぶれるというのは
よく考えないで話すから。

状況によって対処法がかわるなら仕方がないが
話者自身に主導権があっても状況が変わってしまうというのは
考えの練り込みが甘いから且つ信念がないから。

信念というものはよくよく考えた行動原理なのだから
そんな容易くかわるものではない。
一つや二つの状況変化で揺れ動くことなんて
浅はかな考えがそうさせるだけである。

簡単に曲がってしまう薄っぺらいものは信念とはいわない。

何故薄っぺらくなってしまうのだろうか。

それは信念を以て信念を追求していないから。
自分自身に自信、経験、知識がないから信念を作り上げる力がない。

結果、場当たり的な対応に終始するだけで
人間そのものの厚みすら増さなくなる。


何でも丸く治めようとして
みんなにいい顔しようと
するから治まらないのです。

言いづらい事ほど
さらにりと言わないと。

私は後で後悔しますし
我慢が出来ない性分なので
言いたいことは言います。

たとえ双方、文句を言い過ぎたとしても
お互いが相手に対して
「少し言い過ぎたかな」と
すまない気持ちも出来てきて
相手に対して気を使うようになる。
また同意できない理由を
はっきり伝えた上での関係だから
どうすればいいのかを学習しようとする。

抵抗を面倒がって逃げてしまっていれば
結局は鬱憤がたまってしまうものです。

だらだらと我慢していればあとで言う羽目になり
せっかく自分自身が「いい人、大人になろう」と
振る舞っていても、最後には自分自身が破綻を
きたしているのです。

だからお互いの為に
言いたいことは言うのが良いのです。
もちろん相手に対して、自分の気持ちが
伝わらなければならないのですから
当然言い方を考えなければいけません。

この話はまた後日。

もう少し、あなたの根っこにある
我が儘な部分と大人っぽく
振る舞いたい部分とが融合されていけば
二面性が無くなっていき
自然な自分像が出来てくるのではないでしょうか?

私はカッコつけるわけでは
無いけれどいつでも
自分が映画の主人公だと思って
話の流れを考えていますよ。

人に言い過ぎたときは
その後再び話始める場面

人とけんかしたときは
仲直りの場面

いつも、どんな話にしようか
考えています。

自身が主演のドラマ。

話が意味、意義があるものになるか、ないものになるか...
深い話になるのかならぬのか...
主人公、そして関係する人々が
愉しそうにしているのか、それともしていないのか...

あなたの描く”脚本”次第で大きく変わると言うことです。

kiss0163.JPG

※以前作った自分のHPから抜き出した”知人に送ったメール”の一部です。


忍者ブログ [PR]
カレンダー
02 2024/03 04
S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31
最新CM
[07/09 日本超人気のスーパーコピーブランド激安通販専門店]
[07/07 シャネル キャビアスキン スーパーコピー]
[06/08 スーパーコピーウブロ時計]
[05/29 バッグ,財布&小物専門店]
[05/21 ロレックス時計コピー]
[05/09 スーパーコピー]
[02/11 たなかっち]
[04/02 食べ太郎]
最新TB
プロフィール
HN:
nisrock
性別:
男性
バーコード
ブログ内検索
カウンター