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kiss357ct.JPG

2003/08/06

昨日、こんな記事が載っていた。

:::::::::::::::::::::::::::::::::::::

ムツゴロウこと畑正憲さんさんの旧著に、こんなエッセーがある。

歩き始めた小さな甥が悪戯をして父親に叱られた。
泣きじゃくる甥を慰めて点数を稼いでやろうと
「よしよし、こっちへおいで」と猫なで声で手招きしたのも虚しく
甥がすがりついたのは、やさしい叔父さんではなく
厳しい父親の方だった。

これと同様の反応は、動物の子どもにも見られる。
自分を叱ってくれる存在を頼らねばこの世を来を生き抜いてはいけないことを
幼い命は本能的に知っているのだ-と畑さんは説く。

三十年近く前に呼んだ文章だから、若干の記憶違いがあるかもしれない。
が、この文章の書かれた当時、子どもは「叱られて」育つのが常識だったことは確かだ。

その後、子どもの個性を伸ばすためには「しかるべきでない」派、友達親子を志向する「叱りたくない」派の
登場を経て、子どもを「叱る」総量は、ひたすら減少する。

今や電車の中で、街中で、大声で騒ぎ暴れる子どもを叱る親は、一割にも満たない。
もはや親は子どもを「叱らないのが当たり前」で、このことに理由をつけようとさえしなくなった。

さて、叱られずに育った子どもは、必然的に「叱られることに慣れていない子ども」になる。
不慣れだから、ちょっと注意されただけで全人格を否定されたかのように感じる。

過剰反応が攻撃性につながれば「キレる子ども」の一丁あがり。かくして少年犯罪は増加する。

もちろん少年犯罪の原因は、実際にはもっと複合的だ。
しかし今回、あえて話を単純化したいのだ。
時代が悪いとか、社会が悪いとかじゃなく、身近でリアルな問題として捉えたいのだ。

畑さんが指摘するように、子どもの本能が自分を叱ってくれる大人を求めるならば
それに応えるのは、大人として最低の義務だ。
親が子に与えるべき愛情の基本だ。

まず「叱る」事を取り戻す。そこから始めればいい。。

:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::

こんな記事だ。

全くその通りだと思う。

文中もっとも共感を得たのは
「ちょっと注意されただけで全人格を否定されたかのように感じる」というくだり。

たとえばお客様との対応の場面で問題が起こったとしよう。

会話中、不適切な言葉や態度でお客様を不快な思いにさせてしまったとする。

しかし、当の本人、そんなことわかるはずもなく(わかっていてやっていたら相当な者だ)
先方の態度にとまどう。

その時、明らかに不適切な言動があったことがわからない。
事後それを上司が咎める。

「なんでそんな考え方や行動なんだ。云々」。。

しかし、元々の思考経路の違い、各状況による話の落とし処の違い等、
考えている事が違うわけであるから叱られている方は理解できない。

結果、叱られている方は「キレる」
「うるせーな、このぐらいやってやるよ、次見てろ!!」というキレ方だったら
「おう悔しかったらやってみろ!」と応酬することも可能だが
これがただただ「キレる」のみなので、次につながるわけもない。
叱られた者は納得がいかず、釈然としないまま、また同じ事を繰り返す。

そして「また」叱られる。。。

とうとう叱られている当人、叱られたことなく育ったせいか
叱られるという行為そのものが受け入れられなく
人格そのものが崩壊していく。。

本来なら「あー物事はそのように、考えることが大切なのか」などと頷く場面なのだが
「なんだよ、じゃぁ、自分はいったい何なんだよ!すべて自分のしていることは間違いなのか!」
と相成るわけだ。

なぜ、そのような事になってきたかと言うと、やはり「責任放棄」があげられると思う。
親の「責任放棄」、先生の「責任放棄」、近所の大人、周りの大人の「責任放棄」。
そんな親が育てた「責任放棄」の産物がやがて大人になった。

そう責任放棄のエリートの誕生である。

そんなエリートたちが、その産物である「どうしようもない子ども」を叱ることなど出来ようはずもなく
その無責任な行動の御陰で理解に苦しむ犯罪が増えているといっても過言ではないはずだ。

本来、物事の道理や常識が備われば、もし犯罪を犯そうとしても
常識、罪、償い、人としての倫理を天秤にかければ
そんな馬鹿な行動はしないはずである。

俗に言う「割に合わない」のである。

それをいとも簡単にやってしまうところを見ると
そんな状況下で育った、「あわれな子ども」はもはや人ではなく
鬼畜と見なした方がいいのではないか。

だいたいにおいて、そんな凶悪犯罪を犯した「鬼畜」に対して
人間の権利、そう人権など適用させるほうが間違っていることは明白である。
でも、そんなこと口が裂けても言えないだろう。
「鬼畜」も見た目は「人間」と変わらないのだから。

今は学校の教室には「教壇」が無いらしい。
理由は「子どもにも人権があり、対等な立場だから」なんだそうだ。

あほか!なら「子ども」と「大人」には違いがないのか・
まして「先生」も「子ども」と対等な関係なのか?
なら「偉そうな顔して教えるな!」ぐらいな事は小学生でもわかる理屈だ。
だから叱ったって聞くわけ無い。

そこに線引きが存在しないのなら、いっそ、子どもを教える側に据えて
「先生」様なる者たちを、教えてもらったらどうだ?

屁理屈だとおっしゃる方は、教壇の話そのものが「屁理屈」なのがわかっていらっしゃらない。

人間の質なるものは、長く生きていれば向上するという代物では無いが
いくら何でも10年前後しか経験していない者と、その上の者とを並列させるのは
おかしいだろう?

子どもの人権。そりゃある。
「大人」と「子ども」の命は比べることは出来ない。
しかし現実の世界において交通事故を起こした人ならばわかると思うが
交通裁判によって、人の命の重さが「存在」するのもまた事実だ。

要は「人権」とか「自由主義」とかきれい事ばかり並べて無責任に振る舞っている
「ご都合主義」の人たちに「責任感」を持ってほしいと言うこと。

すべては自分に起因している....そうすべては自分が責任を負わなければいけない...

そう考えれば、叱り方も変わるし、育て方、接し方も変わるだろう。

そうやって育った「責任感」のある立派な「大人」が
この責任放棄の連鎖を唯一断ち切る手段なのである。

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